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楊貴妃

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楊貴妃伝説

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はじめに
  世界的美女といえば、まず思い浮かぶのが中国唐の時代に「傾国の美女」といわれた楊貴妃でしょう。玄宗皇帝とともに逃げのびる途中、36歳を迎えた楊貴妃は自らの近衛兵によって捕縛され処刑されて、馬嵬(マァクイ)という小さな町に埋葬されたと伝わっていました。
悲劇のヒロイン・楊貴妃は第6代玄宗皇帝のお妃でしたが、今から1250年前に勃発した唐王朝の内乱を逃れ東シナ海を漂流して熊本天草の地に流れ着き、手持ちの薬草で島人たちの疫病を鎮めたという伝説が、にわかに真実性をおびてきています。

 伝説の地・天草といえば、九州でも屈指の観光地。島原の乱の主役・天草四郎の誕生の地として有名な、歴史と大自然の溢れる島です。風光明媚な天草五橋が観光の目玉で、松島温泉、下田温泉など湯量たっぷりの温泉がいたるところから湧き出るという素晴らしいロケーション。しかもアワビや伊勢エビなどの海産物がきわめて豊富に食べられるという旅情豊かな土地柄ですが、そういった最高の観光的要素を持ちながら、阿蘇と雲仙島原の間にあって通過する観光地としての悩みがありました。
 こうした状況を何とか打破しようという志向が島内に高まって、そして進み始めたのが楊貴妃の功徳をしのぶ島興し(しまおこし)でした。埋もれていた伝説を掘り起こして銅像を建てるなどの活動が始まって2年を経た平成24年12月、楊貴妃が漂着したといわれる新和町の「立の鼻(タテンハナ)」という地区の住民が主催した島おこし説明会が、本渡のポルトという施設で開催されたのです。
 筆者は「冬虫夏草による地産地消」をテーマとしてレクチャーすることとなり、新和町の有志36人が参加してくれて勉強した後に懇親会が開かれました。天草の酒と料理を美味しく頂いて11時ごろにはホテルに帰って眠ったのですが、その夜、筆者は何度も楊貴妃の夢(後記)を見て目覚めたのでした。もちろん勉強会でも懇親会でも楊貴妃の話は出ませんでしたし、筆者自身、その時まで、楊貴妃に興味を持ったこともありませんでした。

 天草地図

楊貴妃が流れ着いた立の鼻

楊貴妃が漂着した立の鼻
立の鼻風景 

 唐王朝第6代皇帝玄宗の楊貴妃に向けた寵愛が王朝の災いを招いたと部下たちに非難され、皇帝が泣く泣く処刑を命じたと伝えられる悲劇のヒロイン・楊貴妃は実在の人物です。
 争乱で落ちのびる途中、馬嵬(ばかい:今の河南省興平市)で縊死(荒縄で絞殺)され、埋葬されたという楊貴妃(白楽天著「長恨歌」などに記載)ですが、後に墓を調べたところ、中には楊貴妃のものと思われる着衣と身のまわりのものが残っているだけで、死んだはずの楊貴妃の骸はどこにもなかった(中国の新聞報道)ということです。楊貴妃はどこに消えたのでしょうか。 

冬虫夏草を愛した楊貴妃

西安華清宮の楊貴妃像

楊貴妃立像

咸陽市興平県の楊貴妃像



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第1章 楊貴妃の生い立ち

 楊貴妃の実名は楊玉環。
 719年に山東省で誕生し、幼いときに両親と死別して蜀国(現在の四川省)の叔父の家に引き取られ、平民の娘として育ちました。ある日、西征する唐王朝・玄宗皇帝の第18皇子・寿王(後の李琩)に見初められて皇子妃となったのですが、その麗しき妃に目をつけたのが、寿王の実父である玄宗皇帝なのです。
 玄宗皇帝といえば「開元の治」と呼ばれる善政を行って、唐王朝の絶頂期を迎えたほどの名君でした。この改革は仏教の僧尼にも王朝が身分証を与えるという、仏教にとっては布教の端緒となる善行でした。若い頃には(西暦720年頃)民族宗教としての道教よりも、むしろ新興ともいえる仏教に傾倒していた玄宗ですが、楊玉環と出会った740年頃から次第に道教を信仰するようになって、そして楊玉環のあまりの美しさに見惚れて、寿王と離別させようと一計を企んだのでした。
 寿王のもとから道教寺院に出家させ尼僧にし、その間に玄宗は王宮内に道教の修道院を建て、浙江霊山・天台山から司馬承禎という高名な仙人を招いて、玄宗自らが道士(道教をきわめた修験者)になるための修練を始めたのでした。それもこれも全て、楊玉環に気に入られるための策略だったのです。
 1年余の時をおいて楊玉環を宮廷の奥に建てた寺院に呼び戻した玄宗は、二人して道教の修練に励んだといいます。そして5年後に玉環は正式に貴妃(第2正妻)となりましたが、この時、玄宗は60歳、楊貴妃26歳でした。
 この程度ならまだ問題なかったのですが、その後の寵愛ぶりが度を過ぎていたようです。楊貴妃のまた従兄にあたる楊国忠をはじめ、政権の要職に次々と楊の親族を据えて政治を任せ、玄宗は楊貴妃と奥の院に籠もり、その上で楊貴妃が美しさを維持する食べ物として望んだ阿膠(アキョウ)や茘枝(ライチ)そして冬虫夏草(トウチュウカソウ)を王朝の威信をかけて集めさせたのでした。阿膠といえば山東省に自生する驢馬(ロバ)から採取する背脂、茘枝は福建に産するビタミンCがきわめて豊富なフルーツ、冬虫夏草とは仙真(仙人)や天真(天使)しか採ることのできないといわれる世でもっとも希少で貴重な生薬でした。採取には膨大な費用がかり、しかも、立派な専用道を作って毎日のように早馬で届けさせ2人で食したのですから、次第に王朝の財は細り国力は衰えたのでした。
 玄宗に愛想を尽かした旧来の重臣が次々と離反し、世は乱れに乱れて、やがて「安史の乱」と呼ばれる争乱を招くこととなりました。

楊貴妃イメージ
楊貴妃 想像画
楊貴妃と玄宗
楊貴妃と玄宗皇帝


第2章 安史の乱を逃れた楊貴妃

楊貴妃_安禄山

 反乱の首謀者は、北方節度使(地方行政軍事総監)の安禄山。マラカンダ(イラン北方の都市)の遊牧民だったこの男は、希代のくせ者だった。宴会になると、大きなお腹で器用にコーカサスのステップを踏んで(上絵)、周りの者たちの笑いを誘っていました。
 ある時、宮中で開かれた晩餐会で、安禄山の踊りが楊貴妃の目にとまり、楊貴妃は涙を流しながら笑い転げたそうです。それからというもの、楊貴妃の推挙もあって立身出世を果たした安禄山ですが、その胸の内は、優雅で美しい楊貴妃に恋い焦がれていたといいます(楊貴妃が死んだのを知って狂い死にするほど)。貴妃を我がものにしたい、との邪悪な思いは大きく膨らんで執念と化し、そしてついに略奪を決行することになったのでした。
「皇帝より宰相・楊国忠討伐の命を賜った」と北方の辺境地域(現在の北京)で挙兵。騎馬8千、歩兵15万を率いて都・西安に向けて進撃を開始。1ヶ月後の755年12月には都より300キロ東方の要衝・洛陽府を陥落させて、唐の大半を支配下に置いたのでした。
 明くる1月、安禄山は「燕国」の建国を宣言して自ら「雄武皇帝」を名乗り、皇帝に即位、唐王朝の都である西安の攻撃を開始しました。
 対する皇帝軍の大将軍・哥舒翰(グスゥハン)は、西安と洛陽府の中間にある潼関(トングァン)の要塞で応戦し、反乱軍と激しい攻防を繰り返したのですが、6ヶ月におよぶ激しい攻防のすえに皇帝軍は分裂して大将軍・哥舒翰は捕らえられ、将兵たちは総崩れして都・西安に逃げ帰ったのでした。それは756年6月のことでした。

安史の乱を検証①)


 宮殿にいた玄宗と楊貴妃ら3000人は危機を察し、西安を脱出したのですが、その2日後、わずか60キロほど西に下った馬嵬(マァクイ)という街の入り口で悲劇が起きたのです。
 本来ならば皇帝を護るべき近衛軍が皇帝たちを取り囲んで、争乱の原因をつくった宰相・楊国忠ら一族の処刑を求めました。楊国忠が死ねば安祿山の大義はなくなって、内乱は収まると思ったからでしょう。皇帝が採決を下す前に楊国忠と楊貴妃の姉妹たちは殺害され、さらに暴徒化した將士たちは楊貴妃の処刑をも要求したのでした。
 危機差し迫った状況で宦官太監(宮中総監)の高力士が「貴妃様を処刑する以外に皇帝を救う道は御座いません」と、玄宗の説得にあたる。玄宗は信頼する高力士の説得に泣く泣く応じ、そして「貴妃の望むように道教の寺院に連れて行って、自決をさせてやってくれ」と、最期の始末を頼んだのでした。

 翌夜明け前、高力士は馬の鞍に楊貴妃の身のまわりの物を縛り付け背後に楊貴妃を乗せて、ひっそりと陣営を後にしました。馬嵬(マァクイ)を通り過ぎて西の先にある道教寺院に着いた高力士は、神前に座して祈りを捧げようとする楊貴妃に「上着や身のまわりの物はここに置いてください。道士の服装に着替えてすぐに出発しますので」と促したのです。
「どちらに行くのか?」と、いぶかしがる楊貴妃。
「蓬莱に向かいます。貴妃様はこの寺院で自殺されました」と、告げたのでした。

謀反の首謀者・安禄山
反乱の首謀者・安禄山

阿倍仲麻呂
安倍仲麻呂

 東から北から迫る反乱軍の兵士たち。川下からは殺気立った安禄山の将兵数万、西の行く手には造反した近衛軍が溢れている、よって逃れる道はただ一つ。南方に山越えで40里、およそ5時間ほど馬を走らせると、そこには漢水(揚子江の支流)が流れています。岸沿いに駆けてゆくと、まもなくウイグル信仰(マニ教)の小さな寺を見つけました。高力士はもとより楊貴妃を助けたい一心でしたから、道教を信仰する楊貴妃を道教寺院に隠せば追っ手に見つかるかも知れないという懸念があり、これがマニ教の寺院なら安禄山も見落とすかもしれないと。
 ここ以外に助かる場所はないと判断した高力士は、司祭に「かくまってほしい。追っ手が来たら、小舟に乗せて漢水に流してほしい」と頼みこんだのでした。
 漢水に流せば武漢で揚子江と合流して、いずれは東方海(東シナ海)に流れ出るだろう。今の時期なら揚子江は満々と水をたたえているから、その勢いで、蓬莱まで押し流されるかもしれない。ここで座して死を選ぶよりも、万に一つでも可能性があれば、それに賭けるしかないと考えたのでした。そして馬の蔵に結び付けていた金塊を礼として司祭に手渡しながら「倭(やまと)の国の偉いお方が訪ねて来たら、これを渡してほしい」と、一遍の詩文を託したのでした。
美人捲珠簾 深坐嚬蛾眉 但見涙痕濕 不知心恨誰(美しきご婦人が珠すだれを巻きあげ 部屋の奥深く座って眉をひそめている どなたのことを想って 毎日のように涙を流しているのだろうか)
 心密かに楊貴妃を思っていた高力士、楊貴妃をなんとか倭(やまと)に逃がしたい。その気持ちを、同じく親交のある李白が詠んだ「怨情」と題する五言絶句にしたためて、朋友である安倍仲麻呂(あべのなかまろ)に伝えようと思ったのでした。
 仲麻呂といえばかつては遣唐使の一員だったが、唐に滞在していて官僚の登龍門といわれる「科挙」に合格して宮中に召され、出世をして玄宗皇帝の近くに仕えていました。しかしながら、安史の乱が起きる直前に日本の遣唐使の船に乗って、帰国の途についた仲麻呂。ところが、出航直後の東シナ海で船が難破。噂では、一命をとりとめて唐のどこかで生きていると聞く。
「貴妃を倭(やまと)に逃がす、あとは宜しく頼む」
深い知己にある仲麻呂ならば、いつの日かこの寺に立ち寄って詩文を読み、高力士の気持ちを察して倭国に立ち戻り、楊貴妃を探し出してくれるに違いないと考えた。
 急ぎ馬嵬(マァクイ)にとって返した高力士は、道教寺院の裏山に墓穴を掘って楊貴妃の着衣と身のまわりの物を埋め、あたかも楊貴妃の墓のように見せかけたのでした。

楊貴妃自殺の謎を検証②



 しかし、反乱軍からも皇軍からも追われる楊貴妃には、安寧の場所はありませんでした。追っ手が迫ってきたのを察知したマニ教寺院の司祭は夜陰に紛れて、僅かばかりの食糧を積んだ小舟に楊貴妃を乗せて、そっと漢水に押し流したのです。
「蓬莱に行けるのですね」と、静かに祈りを唱える楊貴妃、37才。
 小舟は蕩々とうねる黒い波にのって、木の葉のようにゆれながら下流へと消えてゆきました。それは西暦756年6月の、暗く蒸し暑い夜のことでした。


楊貴妃脱出ルート

.楊貴妃の脱出ルート(推測)



筆者:川波連太郎

以上より資料抜粋加筆
冬虫夏草の歴史(中世)
「古事記」
「続日本記」
冬虫夏草
 

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