このページは天草に残る楊貴妃伝説の要点を検証し解説しています。先に伝説(下をクリック)からお読みくださると、より楽しく解明できます。 

天草楊貴妃伝説
 
検証:天草に残る楊貴妃伝説

はじめに

楊貴妃が唐王朝の内乱を逃れて天草に渡っていたという伝説が真実かどうか、検証してみる。
それとも多くの観光地にあるような単なる作り話なのか、その時代の考察と可能性を考えた上で、真実か否かの結論を下してみたい。
筆者としては、この伝説が真実だと思って根拠を示してゆくので、まずは天草楊貴妃伝説をご一読いただいた上で、下記の資料をベースにした検証を行ってご判断を下されるよう、お願いをしたいと思います。

検証①安史の乱の真相
第18皇子・寿王の妃となった楊玉環(後の楊貴妃)に心を奪われた第6代皇帝・玄宗は、息子の寿王から愛妻である玉環を取りあげ、宮廷に道教寺院を建てて二人して道教の修行に励んだといわれている。
白居易(白楽天)という歴史家が綴った
長恨歌によると「午前中の政務は全て取りやめた」と記されるほど、玄宗は政務を怠るようになっていた、と記録が残っている。
この間に王朝を運営したのは宰相の李林甫だが、性格が陰険なため旧来の重臣を次々と失脚させてしまい、強力だった軍事力は陰りを見せていた。
李林甫の死後に実権を掌握したのは、楊貴妃のふた従兄である楊国忠。そして北方方面の執政は、節度使だった安禄山に全てが任された。節度使といえば地域の行政と軍事を司る総監であり、北方三軍を掌握した安禄山は一気に唐王朝の五指に入るほどの実力者に昇りつめていた。
安禄山は楊貴妃に取り入り玄宗にも気に入られて、宮廷の奥の院まで通され、時には酒食を共にするほどに親しくなっていたというが、心中では、楊貴妃に強烈な恋心を抱いたという。
これを快く思わない楊国忠は策をもって安禄山を凋落しようとしたが、予知した安禄山が先に楊国忠打倒の兵を挙げた。これが、唐王朝を衰退させたとして有名な「安史の乱」である。
安禄山は北方3州の豪族に「皇帝より、楊国忠を撃てとの玉命を賜った」と計って精鋭8千騎と15万の歩兵を集めて、西安の都に向けて進撃を開始したのである。そして1ヶ月後には西安の守りの要衝である洛陽府を陥落させ、自らが「ここに燕国を建てる」と宣言して皇帝を名乗った。
西安の皇帝軍と洛陽府の反乱軍はその間300キロを挟んで激しい攻防を繰り返したが半年後に皇帝軍が敗走して、玄宗は楊貴妃、楊国忠、そして宦官太監である高力士らとともに楊貴妃の故郷でもある蜀をめざした。
ここでポイントは、
安禄山の心の中が本当に謀反だったかというところである。
トルコ系の大柄で太った男は、宮中で宴会になるとコーカサスのステップを踏んで踊り、楊貴妃を大いに楽しませた。楊貴妃のお陰で破格の出世をしたのだが、心中は楊貴妃を我が物にしたいという邪(よこしま)な考えでいっぱいだったように思われる。
凶暴な軍を率いて都に乗り込み、戦闘放棄させて、
玄宗から楊貴妃を奪い取ろうという魂胆があったのだろうが、西安を落としたその3日後に「楊貴妃処刑」の報を聞いて心底驚いたのであろう。そして眼球が溶けて落ちるほどに涙を流し、やがて発狂して、息子に寝首をかかれた。
安史の乱とは
国を盗るより楊貴妃を盗る、ただそれだけの反乱だったのかも知れない。
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検証②楊貴妃は馬嵬で死んだのか
西安の都を逃れた玄宗皇帝と楊貴妃。そして皇帝を守るべき宦官と近衛兵らが、西安から2日ほど西に下った馬嵬(現在の陝西省興平市)に差しかかったところで、その事件は起きた。
宰相の楊国忠(楊貴妃のまた従兄)を憎んでいた近衛兵たちの不満が爆発。
「宰相を討てば戦は収まる」と楊国忠を刺殺、さらに、楊貴妃をも殺害すると騒ぎ出したのだ。
玄宗は「貴妃は後宮にいて政治に関わりはない」とかばったが、宦官総監の高力士の説得を受けて、楊貴妃に処刑を命ずることになった。
楊貴妃は「国の恩に背いたのだから死んでも恨まない、せめて最後に神を拝ませて欲しい」と頼みこみ、高力士の馬の背後に乗せられて馬嵬からさらに西方の道教寺院へと向かった。
小さな道教の寺に着くと楊貴妃は神前で読経をよみ、高力士がその背後から荒縄で首を絞めて縊死(えし)させたといわれる。遺体は寺の裏山にひっそりと埋葬されたが、墓の在処は高力士と墓を掘った数人の宦官しか知らされていない。
前述の通り、楊貴妃の死を知った安禄山は毎夜泣き明かしたあげくに失明し、さらには発狂して、息子に殺害されるという無惨な最期を遂げた。
さらにその息子も反乱軍の重鎮だった史思明に殺害され、史思明もその息子に暗殺されるという、まるで
楊貴妃の怨念ともとれる悲惨な運命を辿っている。
安禄山の死を受けた玄宗は西安の都に戻ったが、楊貴妃のいない生活に耐えられず、皇位を皇太子の李亨に譲って自らは太上皇となり、隠居をしたという。
その後に玄宗は楊貴妃の霊を祀るため、宮中に墓所を建てようとしたが宦官総監にこれに反対され、やむなく馬嵬の墓を改葬するように命じたのである。
宦官たちがこの作業にあたったが墓の中には楊貴妃のものと思われる着衣と錦の香袋があっただけで亡骸は影も形もなかったと報告された。
当時、楊貴妃と玄宗の恋愛を描いたといわれる詩人、白居易の
長恨歌を検証してみると、どこにも楊貴妃が死んだという文言は見あたらず「馬嵬坡下泥土中不見玉顔空死処(馬嵬の墓の泥土の中には貴妃の玉顔は見られず)」との一節があり、楊貴妃の墓が空っぽであったことを伝えている。
楊貴妃の行方については、中国国内に諸説ある。玄宗の重臣だった阿倍仲麻呂に助けられて中国のとある村に落ちのびたとか、同じく仲麻呂に助けられて蓬莱(日本、或いは日本の近くにある仙人たちが暮らす浄土)に渡り住んだというものが有名である。
同じ頃の日本に記述では、日本への帰国を強く望んでいた仲麻呂の音信が途絶えたとあるし、唐の記録ではベトナムの節度使になったとあるが、実際にはベトナムは唐の領土ではなかったのだからこの記述は信ぴょう性に欠ける。
いずれにしても、何故か、楊貴妃といえば日本との深い関係が語られるのである。
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検証③
貴妃の小舟が天草に漂着した真実性
揚子江の支流にあたる漢水から流された楊貴妃の小舟が、天草に流れ着いたという可能性があるのか否か、検証してみなくてはならない。ここでポイントは、
楊貴妃が流された場所はどこで何月なのかということである。
死亡したとされるのは、西安から西方に60キロの馬嵬。この地には黄河の支流にあたる渭水(いすい)が流れており、楊貴妃を乗せた小舟を渭水に流すならば、黄河を下って安禄山の陣営のまっただ中を通過して渤海に出る。
そうすれば天草に着くなど考えようもなく、運良ければ朝鮮半島に漂着するか、もしくは対馬海流に乗って山陰の沖合を漂流することになる。
ところが朝鮮半島には、楊貴妃が漂着したり住んでいたという伝説はない。また、対馬海流に乗れば何日も海の上に漂って命がつきてしまうだろう。それより以前に、安禄山の陣営のまっただ中を通過するのだから、いつ何時、小舟が岸に乗り上げて安禄山の手に落ちるかも知れない。もとより安禄山は楊貴妃に恋い焦がれていたのだから、捕まれば間違いなく安禄山の囲いものになってしまう。そんな失態を、玄宗を思う宦官総監の高力士がするはずもない。
絶対にソクド人の安禄山に、楊貴妃を渡してはならない。そうなれば馬嵬で処刑したということもすべて嘘になって、高力士も処刑されるから。逃れる手はただ一つ、南に逃げて最悪の場合は揚子江の支流にあたる
漢水からに流すほかはないと考えた。
それならば、万に一つの救いがある。
今の武漢市を経て上海を通過して東シナ海に出れば、東方海上に、道教の憧れの地でもある
蓬莱(ほうらい)がある。道教を盲信する楊貴妃も、蓬莱に流れ着くとなると安心して流れに身を任せるだろう。

安史の乱が勃発したのは西暦755年の11月。
その翌月には、精鋭8000騎が長安の東方300キロの洛陽府を陥落させて西安の都に攻め入ろうとしていた。これに対抗した皇帝軍は半年を持たずに敗退して、危機を感じた玄宗と楊貴妃、宦官たちと近衛兵らは756年6月13日、西安を放棄して楊貴妃の故郷である蜀(四川省)に向けて都落ちしたのである。
従って
漢水から楊貴妃が流されたとすると、旧暦の6月か7月である。真夏の揚子江は、源流の四川高原に降るスコールの影響ですこぶる水量が多い。漢水から武漢を経て揚子江の河口の上海まで1200km、膨大な水量に押されればおよそ5日で東シナ海まで流れ着く。
上海から先のことは分からないにしても、このルートをとれば安禄山の手に落ちることはないと高力士は考えた。
遣唐使であり、盟友でもあった阿倍仲麻呂が話していた。雨季の水量を利用すれば上海から東シナ海に出て、5日もあれば日本の九州までたどり着くと。
その頃、遣唐使の船は揚子江河口の寧波から5月(旧暦)に出航して、揚子江の水量による押し出しを利用して日本へ帰っていた。そして多くの船が鹿児島の長島に流れ着いたり甑(こしき)島に着いたり、あの空海にいたっては、長崎の五島に漂着していたという。
さらに調べをすすめると、楊貴妃が漂着したといわれる天草タテンハナの目と鼻の先にある鹿児島県長島には、西向きの海岸べりに多くの墳墓がみられる。この多くは日本の古墳様式とは異なって生活用品などがなく、埋葬品のほとんどが刀剣だということだ。
刀剣の作りからみて6~8世紀と推察されることから、おそらくは戦乱のさなか、東方海上に浮かぶ
蓬莱を夢見て東シナ海を渡ってきた唐人たちなのだろう。
したがって、天草の島人たちは唐人たちの漂着を驚きはしなかった。仮に楊貴妃が小舟で漂着したにしても、そんなに大した事件ではなかったのである。楊貴妃が、
天草に流れ着いた可能性は限りなく大きいということが理解できる。
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検証④楊貴妃が飲ませた「てんさお」とは
楊貴妃が疫病に罹った天草の島人に飲ましたのは何か、という疑問がある。楊貴湯という漢方薬とも考えられるが、やはり楊貴妃といえば冬虫夏草がふさわしい。道教を深く信仰する皇帝や皇族が資産を傾けてまで集めたという冬虫夏草。玄宗皇帝が、毎日のように冬虫夏草を早馬で届けさせたという逸品である。
馬嵬で処刑を宣せられ、夜更けに、高力士の馬の鞍につかまって脱出した楊貴妃が必死の思いで持ち出し、身につけるとしたら冬虫夏草をおいて他にはない。
天草(テェンサオ)」とは中国名で
虫草のこと。これは、昆虫から草が生えると考えていた古代人の発想だが、現代の中国人も同じように呼んでいる。日本学名は、冬は虫だけど夏には草のごとく発芽することから冬虫夏草という。楊貴妃が「天草」と言ったことについては、中国的な習慣があった。
お茶に例えると、人が摘む茶葉は一般的で、上級になれば猿が摘んだ茶葉と表現、さらに高級になれば鳥が摘んだ茶となり、さらに最高級になれば仙人が摘んだ茶となり、超弩級の茶葉は天使が摘んだ天茶と表現されている。
冬虫夏草のような漢方生薬も、優劣を同じように言い分けるのが常識的である。しかも、楊貴妃の場合は「天子様(玄宗)が天使に採らせた天の草」なのだから
天草と表現したことは当然と言えば当然であろう。
その当時から冬虫夏草は、仙人や天使が摘んでくるというほど希少な生薬であったが、今でもキロあたり数百万円もするというから、当時、
天草と表現しても過言ではない。
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検証⑤
天草に楊貴妃の墓も碑もない理由
時は西暦700年の頃、現在の中国東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)に渤海(ブゥハイ)という唐国に隣接する新興の国家があった。
時の聖武天皇は、遣唐使とは別に遣渤海使を派遣して友好を深めており、その一員に小野朝臣田守という大使がいた。
小野田守は安史の乱が起きた2年後の758年9月に帰国。
楊貴妃が日本に逃がれたとの情報も聞きつけており、それが事実ならば、安禄山が大軍をもって日本に攻め込んでくるであろうと、安史の乱の子細(以下)を奏上した。
《天平宝字二年(七五八)十二月戊申》遣渤海使小野朝臣田守等奏唐国消息曰。
天宝十四載、歳次乙未十一月九日。御史大夫兼
范陽節度使安禄山反挙兵作乱
自称大燕聖武皇帝。改范陽作霊武郡。其宅為潛竜宮。年号聖武。留其子安卿緒。知范陽郡事。
自将精兵廿余万騎。啓行南往。十二月。直入洛陽。署置百官。天子遣安西節度使哥舒翰。将卅万衆。守潼津関。使大将軍封常清。将十五万衆。別囲洛陽。


淳仁天皇(大和朝廷)は鎮西府のあった大宰府に対し、万一、安禄山の軍が攻めて来た時のために「奇謀を設けよ」と命じたのである。

奇謀とは奇策・謀略のことであろう。当時の朝廷の防人では、安禄山の大軍と闘って勝てるわけもない。ならば、正面から激突する戦法をとらず、ゲリラ戦をするように命じたのだろう。
安禄山の水軍も遣唐使のルートと同じく、揚子江の流れと西風によって天草一帯に攻撃を仕掛けてくる。ただちに、天草をはじめ九州西海岸は厳戒態勢に入った。

そんな時期に、楊貴妃の出現である。
これが安禄山に知れたら攻められると思って、全てを封印せざるをえなかった。従って楊貴妃は、天草に大きな功徳を積みながらも、墓碑も記録も残されずに、そのまま時代が流れていったのである。
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検証⑥天草の島名は楊貴妃から由来か
今をもって天草という島名の由来に、確たるものがない。
由来を解き明かすために、いつ頃から「天草」と呼ばれるようになったかを検証してみなければならないだろう。
先ずは、日本最古の歴史記といわれる
古事記を紐解いてみた。これは天武天皇(680年代)の発案で取りまとめられ、語部(かたりべ)稗田阿礼(ひえだのあれ)に記憶させたものを、その後の天明天皇の御代に太安万侶(おおのやすまろ)に文書化させ、712年に完成したものである。
本文は上・中・下の3巻からなり、神々の成り立ちと天孫降臨から始まって、日本創造、そして初代から33代の推古天皇までの偉業について記されている。
その上巻3-神代7代(以下、原文)で注目すべきが、日本国土の創造(国産み)である。


「次生隱伎之三子嶋。亦名天之忍許呂別。許呂二字以音。次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別、自久至泥以音。熊曾國謂建日別。曾字以音。次生伊伎嶋。亦名謂天比登都柱。自比至都以音。訓天如天。次生津嶋。亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋。亦名謂天御虛空豐秋津根別。故。因此八嶋先所生、謂大八嶋國。
然後、還坐之時、生吉備兒嶋。亦名謂建日方別。次生小豆嶋。亦名謂大野手比賣。次生大嶋。亦名謂大多麻流別。自多至流以音。次生女嶋。亦名謂天一根。訓天如天次生知訶嶋。亦名謂天之忍男。次生
兩兒嶋。亦名謂天兩屋

日本国の創造主は伊邪那岐神(イザナキノミコト)と伊邪那美神(イザナミノミコト)の夫婦で、二柱(神々の数えかた)の子供として大八洲(日本八州:おおやしま)が産まれ、その後に瀬戸内海に浮かぶ児島、小豆島、大島、そして両児島(ふたごじま)など6島が産まれたとあり、その
両児島が今の天草である。

少し横道にそれるが、一説には、両児島が五島列島の西南海に浮かぶ男女群島を指しているといわれているが、ここは男島、クロキ島、中ノ島、ハナグリ島、女島というほぼ無人の小さな5島と、他に70に及ぶ岩礁からなっており、したがって「両児」という意味とはあまりにも縁がなさそうである。
天草の場合は、天草下島を人と例えると右手に長島(当時は仲島)左手に天草上島があって、まるで両児を抱えたように見える。加えて「天兩屋という呼び名であるが、これは、天つ国に近い二つの家というように解釈できる。
天つ国の入口は天孫降臨で分かるように宮崎県と熊本県の付近にあったと考えられることから、6島のうち、その近くに創った3島(天草諸島、長崎五島、大分姫島)全てに「天」の字を付けて呼んでいた。
ところが、男女群島は、五島から更に70数キロも沖合にあって天つ国の入口とはほど遠い。よって、男女群島が両児島だという説には、無理があると言わざるを得ない。

本論に戻そう。
したがって天草という島名がつけられたのは古事記の完成よりも以降のことである。では、いつから「あまくさ」と呼ばれたのか・・・
797年に編纂された
続日本記第35巻をみると、遣唐使の大伴継人ら41人が天草に漂着したことが記録(以下)に残る。
《宝亀九年(778年)11月乙卯》第二船到泊薩摩国出水郡。又第一船海中中断。舳艫各分。主神津守宿禰国麻呂。并唐判官等五十六人。乗其艫而着甑嶋郡。判官大伴宿禰継人。并前入唐大使藤原朝臣河清之女喜娘等四十一人。乗其舳而着肥後国天草郡
古事記の時代には両児島だったが、この歴史記が完成した797年には
天草と呼名が変わっている。これからまとめると、712年から797年の間にきわめて大きな変革があったことになる。
ちなみに「郡」がついているのは、大宝律令によって700年代上期に郡司(ぐんのつかさ)という地方管理の役人が赴任したことを示す。

そもそも両児島というのは、神々が付けた由緒ある名である。
神代の昔、太陽の神として崇められた天照大御神(アマテラスオオミノカミ)の母身でもあり、日本国土の創造主である伊邪那美神。この神が創造した
両児島だから、それはそれは島全体に神々の威光が行き渡っていても不思議はない。
島内の到るところに神々を祀る神社が建てられ、おそらくは外地よりも格段に深い信仰を集めていたと思われる。その島名が変わったのだから、この年代に尚かつ凄い神が現れたのではないか。
では、どんなに凄い神なのか?
この疑問を解くために、今一度「古事記」に戻ってみよう。
第10代・宗神天皇の御代。
巷(ちまた)では疫病(伝染病)が大流行し、これに胸を痛めた天皇が大物主神(オオモノヌシノカミ)の御霊を奈良の三輪山に祀って疫病を鎮めたという。同じく、楊貴妃が天草に流れついた頃も疫病が流行っており、これを鎮めるために、新たなる神への崇拝を迫られていたことは想像できる。
疫病は、当時、何らかの神の怒りをかっていたと思われていたのだから、その神の怒りを鎮めるには、その神を従わせる力を持った、より偉大な神を見つけることだ。そしてその神のために神社を建てて、必死に祈祷を献げるよりほかに方法はなかった。
しかしながら、その神がどこの誰なのか見当もつかない。そうして悩んでいる間にも、どんどん疫病の被害は増える。だから、島の司祭(国造:くにのみやつこ)は早急に神を探さねばという責務がある。
そこに流れついたのが、楊貴妃である。楊貴妃は天子様からもらった天草を「天草医薬百病的」と書きつづって、疫病で死に瀕した多くの島人に飲ませて命を救った。それは司祭や島人にとって奇跡でもあった。疫病を鎮め生命を助けるのは、間違いなく神をおいて他にいないからだ。
神々の歴史を知る司祭は「これは天つ神のお導き」と大いに畏まり、島人たちは、いにしえの神々よりも目の当たりに奇跡を起こしてくれた現人神(アラヒトガミ)を深く崇拝したということになる。

他に「天草」の語源について調べてみると、これという確たるものがない。寒天を作るテングサの字をとったとか、海人族という海洋部族が島に住み着いてその名をとったなどが挙げられるが、どれもこれも関連性は弱すぎる。
ほかの記録によると、寒天の原料の海藻は大宝律令(701年制定)の時代には凝海藻(コルモハ)と呼ばれ課税対象だったことが記されおり、また、この律令の直後に編纂された万葉集には山部赤人の歌などに玉藻(たまも)という読み名が付されていることから、天草とは呼ばれてなかったことが分かる。
「潮干なば 玉藻刈りつめ家の妹が 浜づと乞はば 何を示さん
潮干なば 玉藻刈りつめ 家の妹が 浜づと乞はば 何を示さん)

テングサと呼ばれだしたのは江戸時代になってからである。凝海藻(コルモハ)を煮詰めてとれる煮こごりが心太(こころてん)と呼ばれ、この凝海藻をココロテングサと言ったことから、後に天草(テングサ)と凝縮された。
しかし、両児島から天草に変わったのは上述のように8世紀中頃だから、江戸時代に天草に変わったのではない。
海人族の字をとったことなどは、さらに信ぴょう性が低い。当時、海人はアマと呼ばれていたが、立場からいうと漁師一族である。国内各地を見渡してみても、漁師一族が住み着いていたから郡名を名付けたなんて例は見当たらなく、あったとしても、せいぜい村か入江の名前くらいである。
それよりも、756年に両児島に出現した女神(当時はだれも楊貴妃とは気づかなかった)が疫病にかかった島人を救い、女神の最期にその天草をばらまいて
「病気が蔓延したら再び天草が生えて人々を救う」と予言したことが、大きな期待とセンセーショナルとなって島人の心に残り、天草いずる島という唯一無二の地名が島人の口々から発せられたこと、そして、両児島が国産みの天つ神によって創られたと信じる司祭たちも、疫病をたちどころに癒した薬草が、天照大御神のもたらした天つ国(アマツクニ)の薬草として知る天草(あまくさ)だと信じ、これを持って女神が降臨してくれたと思っていたのだから、再び神の怒りをかうことを畏れて天草(あまくさ)という改名を慶んだと思える。これが天草の由来だと考える方が自然である。
このように、楊貴妃がもたらした他に史実がないならば、楊貴妃が漂着したことは伝説ではなく真実といえる。
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検証⑦楊貴妃の痩せた銅像
中国西安の華清宮に建てられた楊貴妃像も興平市にある墓稜の立像もふくよかな体型の楊貴妃だが、天草の銅像はあまりにも痩せこけている。この違いは何か?
中国人はポッチャリ系が美人で、日本ではスレンダー系が美人だという説もあるが、そうあっさりと決められないのが歴史である。
確かに中国の昔の美人を見ると皆さんそれなりにポッチャリしているし、日本だって、あの当時から平安時代に掛けては引目かぎ鼻おちょぼ口のポッテリ系が美人の対象だった。
しかしながら楊貴妃は、揚子江の支流である漢水に流されてその後に東シナ海を越えて流れてきたのだから、揚子江の水流が時速10キロで1200キロメートルを流されると、河口までに要した日数は5日間。
揚子江河口から天草まで700キロだから、時速10キロで流されたとしても6日、合わせて11日間は小舟に積まれた僅かのものと天草を食べて命をつないだと思われる。>
天草に渡っても、玄宗に処刑を命じられたショックや環境の違い、漂流の疲れ、食の違いからほとんど食事を口にしていなかったと考えられる。
これが、楊貴妃激やせの真相なのであろう。
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検証⑧楊貴妃と冬虫夏草の関係
楊貴妃伝説の真実を探るうえで、楊貴妃と冬虫夏草の関係について検証してみたい。
仏教に傾倒していた玄宗が、楊貴妃の気を引くために道教に改宗したり宮中に道教の修道院を建てたことから、おおむね事実であろう。冬虫夏草と道教の関係については、4500年前の中国古代から、歴代の皇帝と強いつながりがあったことが遺跡の中に残されている。まずは前漢の時代(紀元前206~8年)に編纂された
史記を参考にしてみよう。
史記は当代の書記官・司馬遷によってまとめられた中国最古の歴史禄として有名である。紀元前2500年代の開祖・黄帝の時代から前漢の武帝に至までの31人の皇帝王侯に関する記述がなされているもので、信憑性と正確さについてはその後の発掘や解明などでも証明されつつあり、漢族正史(正しい歴史録)の第一にあげられるほどの高い評価を得ている。
その史記の中にあって、歴代皇帝の傍にあった宗教が「道教」である。道教は中国三大宗教(道教・儒教・仏教)の一つとして2世紀頃に中国南方から広まったといわれ、現在では中国をはじめ日本や韓国、台湾、東南アジア諸国で深く信仰されている。
史記に残されているのは道教のルーツで、古代中国に発する土着思想(シャーマニズム)である。
生物の全ては大自然の神とつながり神と深い契り(崇拝)を結ぶことによって存在し恩恵を受けることができる、という根本理念をもったもので方仙道と呼ばれていた。この思想は黄河文明(仰韶文化)が開かれた、その5000年前に黄河の南山岳地帯(河北省)から始まって、以来、時の権力者が深く信仰したり、あるいはシャーマン(方仙道を究めた仙人)自身が権力の座に就いたといわれるほど漢族古代の歴史には欠かせない思想である。
この後に、方仙道は歴代皇帝が崇拝する漢族固有の宗教へと発展し、多くの修験者が大自然の神と契りを結ばん(崇拝)として深山に籠って、何年何十年という過酷な修行に励んだという。
こうして大自然と向き合うことで誕生したのが
太陽暦であり気象学であり象形文字であり薬膳医学であり自然哲学(五行思想)である。
これらは方仙道を習熟した仙人(仙真)と呼ばれる一群によって下界にもたらされ、当時の文明文化の柱になっていたが、5000年を経た現代に至るまで文化・思想・学問・哲学の根本として、アジア諸国に伝承されているという事実はただ驚くばかりである。
節句の慣わしや鍾馗さま、七福神(中国では八福神)、祖先を重んじ親子の関係や生活態度などの生きる道を教える
道徳も遣隋使や遣唐使によって日本に伝承されたものと思われる。
そして道教とともに5000年も受け継がれてきた歴史遺産に、冬虫夏草がある。
冬虫夏草とは子嚢菌門バッカクキン科の、昆虫に寄生して発芽する小さなキノコだが、方仙道の道士(仙人を目指す修験者)が数年も深山に籠もって修行する間に病気を癒し気を養える貴重な生薬だという体験を得ていた。仙人たちは大自然の力に導かれるままに霊峰に入り、冬虫夏草を見つけては木の実と練り合わせて丸薬にして、事あるごとにをこれを食した。
野菜を植えるでもなく猟をして食餌を確保するのでもないのに、常人の数倍も長生きする仙人たち。この生き様を知る村人たちは、
仙人は霞を食って生きると信じた。
下界に降りた仙人たちは腰に小さな袋をぶら下げ、ことある毎にその袋から丸薬を取りだしては食する姿が民衆の目にとまった。そしていつの日にか、時の皇帝が不老長生の妙薬として丸薬すなわち冬虫夏草を求めるようになっていたということだ。
腰袋に薬草を入れた諸葛孔明(西暦181~234年)のイメージは、日本でもお馴染みだろう。先般上映され大ヒットした
レッドクリフでは、仙人修行のさ中に蜀(三国志で有名な魏・呉・蜀)を建国した劉備玄徳から三顧の礼をもって迎えられた。そして赤壁の合戦において曹操軍船団を焼き尽くす大風を呼びよせ、伝染病の兵士に百薬の汁を与えて助けるシーンが呼び物だったが、気象を操り百草の効を利する仙人が神とも思える働きをして皇帝を助ける、当時の好例を見たような気がする映画だった。>
その時代より2800年ほど、時はさかのぼる。今から5000年も前のこと、当時の中国は民族間の対立が激化していた。黄河文明を開いた漢族に対して、南方部族の神農族、北方にはモンゴル系の韃靼(だったん)族、西方にはウィグル系の遊牧民族が割拠して領地拡大を狙っており、黄河と長江(揚子江)に挟まれた漢族の所領に攻め入ろうとして激しい攻防を繰り広げていた。

話が少し横道にそれるが、この神農族の開祖である神農も仙人である。中国の伝説に登場する神農は三皇五帝の一人で、百草の知識を究めて諸人に医療と農耕の術を教えたという。そして神農は、これらの多大な功績を称えられて
神農大帝と後の世まで尊称され、日本でも漢方生薬と農耕の神として祀られているほどに有名である。そして仙人のごとく自らも薬草を重用して120歳まで生きたといわれているが、その卓越した知識は現在までも伝わっていて、世界最古の薬膳録「神農本草経」に英知をとどめている。

話しを当時に戻そう。
神農部族を従えて、漢民族を統一したのが公孫である。
公孫は15歳にして中原(黄河と長江の間に広がる平野)の覇者となり、抗争を繰り返す間に神農を従えるほどに成長して民族統一を果たし、37歳で天子の位に就いて
黄帝と称された。
黄帝は後世で中国人が崇める三皇五帝の第一人者で
文明の祖または人文の祖と称されるが、最初の律令国家を建設し、青銅の鋳造、五穀の栽培、絹の生産、紡績などの技術を確立した他にも、方仙道の教義を政治に取り入れたり、これらに関する膨大な教典を後世に残した。
なかでも神農とまとめた、仙人たちの経験と知識を伝える
黄帝内経は人体を科学的に説明し、同じく黄帝外経は病気の治療法を説明したものとして現代でも評価が高い。さらには神農がまとめた神農黄帝食禁は、薬膳と百草取り扱い心得を記した薬膳の教本として、中国漢方の基礎をなしている。
こうして黄帝は政治文化の礎をなし125人の実子を残して世を去ったが、その末裔たちが後に続く、夏、殷、周、秦といった古代国家を建設していった。
よって、秦の始皇帝や楊貴妃たち歴代の皇族は冬虫夏草のことを深く認識しており、誰もが探し求めて重用するほどの貴重なものだった。
この理論を裏付けるひとつが、河南省の殷王朝(紀元前17~1046年)の古墳から発掘された祭祀の壷である。そのひとつに
仙草の文字が記されており、このことから殷の皇族たちはこぞって高名な仙人を司祭として迎え、冬虫夏草を祭壇に祀って不老長生を祈願したものと考えられる。
仙草が冬虫夏草でなくて他の薬草だったら、これら史実が根本からくつがえる。信憑性を探るうえで更に参考にしたいのは、道教教典の十洲三島伝説の中の「そこには仙草仙芝が生えた宮閣楼台があり、仙童玉女がいて諸々の仙真(仙人)が遊び休息する。名山大川にも風景秀麗な洞天福地があり、道教の仙真がそこで修練する」というフレーズだ。同じく仙人が広めた
仙芝が仙草と並び称されているが、この仙芝は高山の絶壁の岩の割れ目から出ていて仙人が腰掛けたことが語源のサルノコシカケを指している。
仙草が子嚢菌門バッカクキン科のキノコなら、サルノコシカケは霊芝(レイシ)という担子菌類サルノコシカケ科のキノコである。どちらも神農が起源となる最古の薬膳教義
神農本草経に記され、同じく古代から方仙道そして道教の司祭では飾り壺に入れて神前に供えられ、不老長生を願ったとされる薬膳の代表的な生薬である。
仙草は時代が進むにつれて、昆虫から発していることが分かって「虫草」と呼ばれるようになり、やがて冬の間に菌糸を育み夏になると発芽してくるキノコと分かって「冬虫夏草」と言われるようになった。
仙芝は「七食の芝」として道教教典にたびたび登場するが、実際に自然界では紫・黒・赤・白・黄など多くの色の種類が見かけられ、まったく、猿が腰掛けるような形の霊芝を見ることができる。どちらも神農本草経では上薬とされ、数千年を経た現在までも、この2つは漢方生薬の双璧として効能を明らかにしている。
こうして古代から現代までの5000年をたどってみると、これより他に絶賛された生薬は存在していない。よって、仙草は間違いなく冬虫夏草であり、仙芝は霊芝を指していると確信するに到った。

楊貴妃は道教に傾倒していたから勿論のこと、自身の美貌の根源が大自然にあると考えており、したがって仙草を熟知し、ことのほか重用していたことも相違はない。楊貴妃を寵愛する玄宗も、滋養強壮と不老長生が大目標であったことは言うまでもなく、二人はこの生薬を天界(稀有なる場所)から採取させて取寄せたのだろう。
もう一つの見方として、冬虫夏草がどのように楊貴妃を魅了したかも検証してみよう。
冬虫夏草は姿の全てが菌類だから、全てが酵素の塊である。酵素は細胞を活性化して
代謝を促進する必須な要素であり、これと茘枝(ライチ)のビタミンC、そして阿膠(アキョウ)のコラーゲンとを併せて摂れば素晴らしい美容成分となるのだから、楊貴妃の美貌が維持できて当然ということになる。史上最善の生薬・冬虫夏草を毎日のように食していた楊貴妃が長江に流されるに至っても、これを生命の根源として肌身離さず持っていたことを決して否定はできない。
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「古事記」「続日本記」
進化をつづける冬虫夏草
冬虫夏草の歴史
以上より資料抜粋加筆
筆者:川波連太郎
 



検証:天草に残る楊貴妃伝説
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