天草楊貴妃伝説|天草漂着 |
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第3章 天草に出現した女神 |
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ここから、お話しは蓬莱(ほうらい)に飛びます。蓬莱といえば道教の教義に登場する、唐国の東方海上に浮かんだ仙人の集う楽園で、倭(やまと)と呼ばれていた日本も、蓬莱の一部だという印象をもたれていました。 倭の国には、唐王朝と20回にわたって交流をつづけていた遣唐使がいて、唐に渡ると都に上って玄宗皇帝や楊貴妃に拝謁し、その帰路は、揚子江の出口にある寧波の港を出航して、揚子江の膨大な水流と偏西風に押されながら日本へと戻っていました。 揚子江の水量が増える夏季には、寧波港を出てからおよそ5日後には天草の沖合まで流されて、その辺りから対馬海流に乗って北へ舵を切り、長崎平戸を経て、玄海、洞海をめぐって関門海峡に入り、瀬戸内海を通過して大阪の住吉に入港していたのです。 しかしながらこれらの船の多くは、東シナ海の高い波浪と暴風で舵が壊れて操縦不能となり、そのまま西の果ての島々に打ち上げられていたといいます。盲目の僧侶で知られるあの鑑真は鹿児島の坊津に、遣唐使の大伴継人は同じく長島(天草立の鼻のすぐ対岸)に、そして弘法大師で有名な空海も長崎五島に漂着していました。 |
坊津に漂着した鑑真 |
五島に漂着した空海 |
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そうした島々の一つに、両児島(ふたごじま)と呼ばれるきわめて由緒正しき地域がありました。神代の時代に伊邪那岐神(イザナキノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)の夫婦によって産まれた土地柄ですが、この年には大洪水や疫病(天然痘)が大流行して、多くの島人が被害に遭っていました。 両児島の祭祀を司る国造(くにのみやつこ)は「天変地異と流行り病は国つ神(くにつかみ)の怒りであらせられる。鎮めるには、より偉大な神の力を借りねばならぬ。この地に神の社を建てて祈祷せねばなるまい」と考えていました。 「はて、その神とはどなた様が宜しかろうか・・・」 国造は第10代・宗神天皇の御代に流行った疫病についての記憶をたどってみました。 「そうじゃったな、あの時には国つ神の筆頭であらせられる大物主大神(または大国主命)を三輪山にお祀りして疫病を鎮めたのじゃった。それでもまたまた、このように疫病が流行るのじゃから、今度は国つ神ではなく天つ神をお祀りせねばなるまいて」 「天つ神(あまつかみ)ならば、伊邪那美神からお産まれになった女神であらせられる天照大御神(アマテラスオオミノカミ)をおいて、他にはおられぬが・・・」 国造(くにのみやつこ)にとって、国産みの神様を超える神を探すことは誠に畏れ多いことでした。ところが頭を抱えている間にも、疫病はどんどん広がっていたのでした。
梅雨明けの強烈な太陽が、両児島に降り注いでいました。そのそんなある日のこと、不知火海に突き出した「立の鼻/タテンハナ」と呼ばれる小さな岬の浜に、一艘の粗末な小舟が打ち上げられ、外見から、時折流れ着いていた西国のものだと分かりました。当時は東シナ海の航海の途中で難破した貿易舟や西国の漁の舟が舵を壊したりで、タテンハナに流れ着くことは珍しくもないことだったからです。 (天草に漂着できる可能性を検証③) 集まってきた島人がその中をのぞくと、1人の若い女が身を潜めていたのです。 「生きとうぞ、西国の綺麗な女人じゃ」 驚いた島人はその女を助け出して、村長(むらおさ)の屋敷に連れて行きました。 そこには流行り病にかかった数人の島人が担ぎこまれて、土間に並べられて治療を受けています。治療といっても手の施しようもない、ただお迎えの時を待つという悲惨な光景でした。 これを目の当たりにした美しい女は、懐から小さな袋を取りだして「ズァグァ イズゥバイビンドゥ テェンサオ ナチュバ」と、何度もくり返しました。 しかしその言葉は誰も理解できず、筆と紙を渡された美しい女は、そこに「天草医薬百病的」と走り書きをしたのでした。 「なに、天草という薬草じゃと。それは天界でしか採れぬそうじゃが、もしや・・・」と、これを読んだ村長は言葉を失いました。 西国の女はその天草とやらを数片取りだし、屋敷の女が煎じて島人たちに飲ませたのです。 (楊貴妃が飲ませた薬草を検証④) まるで夢を見ているようでした。息絶え絶えだった病人たちが、またたく間に元気を取り戻したのです。 村長が叫びました。 「はやり病が治ったど。奇跡じゃ、神様じゃ、このお方は女神様にちがいない」 疫病が神々の祟り(たたり)だと信じる司祭や島人たちは、たちどころに癒した美しい女のことを、偉大な神だと思い込んだのです。そして女が望むとおりに、タテンハナのほど近く、海が見わたせる小高い丘の上に社(やしろ)を建てて崇め奉ったのでした。 |
第4章 祀られなかった楊貴妃 |
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それから数ヶ月が経った日のこと。来る日も来る日も海を見つめていた女神の姿が、ふと見られなくなりました。心配した島人たちが社を訪ねると、女神は「天子様が迎えに来る」というのです。 「てんしさま?」 「そうです、お別れの時が近づいています」 女神は寂しそうにつぶやき、外に出て、懐にしまっていた袋を取りだし、中の薬草を掴んで社の周りに捲き散らしました。そして「この地に再び病が溢れる時、ここより天草が萌えいでて病に苦しむ人々を救う」と、予言をしたのでした。 遙か海の向こうを見つめて佇んだ女神を仰ぎ見る島人は、女神さまを奪いに来る悪霊を追い払おうと太鼓を打ちつづけ、ひたすらに祈りを捧げました。 「神さま、女神さまをお救い下され・・・」 暫くすると急に天が曇り、激しく雷鳴が響いて目前の山肌に亀裂が生じ、裂け目から巨大な竜が飛びだしてきたのでした。竜は女神をくわえて空高く舞い上がり、ひらひらと落ちてきたのは、あの天草を入れていた小さな袋がただ1つ。まるで夢か幻を見ているような、あっけない女神さまの最期でした。 噂を聞きつけた鎮守府(太宰府)の役人がタテンハナを訪れたのは、それから1ヶ月の後でした。社に踏み入った役人は、女神が書き残した書文を見たのでしょうか、顔面蒼白になって出てきました。 「このお方は唐国(からくに)のお后様じゃ、楊貴妃様じゃ。ああ何と言うことだ」と、頭を抱えて天を仰いだのでした。 安禄山の反乱によって亡くなったはずの楊貴妃が、この地にいた。しかも、大和朝廷からは「安禄山の襲来に備えよ」との戒厳令がでている。もしもこの事が安禄山に知れると、恋い焦がれる楊貴妃を奪回せんとして、大軍を率いて押し寄せてくるだろう。 「これは大変だ、絶対に秘密にしよう。口外せぬよう、島人にも厳しく箝口令(かんこうれい)を引かねばなるまい。この社も壊して、楊貴妃に関するあらゆる事実を隠蔽してしまおう」 役人は肥後の国司に「燕国との戦にならぬよう、万全を期してほしい」と伝えて、急ぎ、郡司(ぐんのつかさ)を派遣して箝口令を徹底したのです。 (楊貴妃の墓も神社もない理由を検証⑤) しかしながら恩を受けた島人らは、女神を忘れることができませんでした。社が建っていた場所を「楊貴妃の地」と呼び、竜が出てきた山に「竜洞山」と名称をつけて、後世にまで記憶にとどめようとしたのです。島人らは誰からともなく、心に生き続ける女神を懐かしむように、かの地を「天草いずる島」と語るようになり、かの村を「神話郷(しんわごうり)」と呼びました。 数日後、両児島に赴任した郡司は祭祀を取り仕切ってきた国造に、ある相談を持ちかけました。 「この島を政令(大宝律令)により郡と致しますが、名を如何にすれば宜しかろうか。古事記に書かれた『天両屋(あまのふたや)』にちなんで『両屋郡』とでも?」 神の祟りが再び来るのを恐れる国造は「女神様が天照大御神の御命令で天つ国の薬草を持って降臨されたのじゃ。あのご薬草のお陰で神様の祟りがおさまったのじゃから、この島を『天草』と名付けて、神様のご加護に感謝をせねばなるまい」と、命じたのでした。 国産みの昔から付けられた由緒ある「両児島」の名が「天草郡」へと変わった瞬間でした。 (島名が変わった歴史的事実を検証⑥) |
第5章 天草という島名の由来 |
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「天草」の由来について調べてみると、他にこれというものが発見できません。天草の地で調べを進めると、寒天を作るテングサの字をとったとか、海人族(アマゾク)という海洋部族が島に住み着いて、その名をとったなどが挙がってきます。 記録によると、寒天の原料となる海藻は大宝律令(701年制定)の時代には凝海藻(コルモハ)と呼ばれ課税対象になったことが記されおり、また、この律令の後に編纂された万葉集(783年頃)には山部赤人が詠んだ「塩干去者 玉藻苅蔵 家妹之 濱口乞者 何矣示 (潮干なば 玉藻刈りつめ 家の妹が 浜づと乞はば 何を示さん)」という歌のように玉藻(たまも)という読み名が付されていることから、西暦700年代のこの頃には天草(てんくさ)とは呼んでいなかったことが分かるでしょう。 「テングサ」と呼ばれだしたのは、江戸時代になってからで、凝海藻(コルモハ)を煮詰めてとれる心太(ところてん)が流行って、その凝海藻を「ココロテングサ」と呼んだことが後にテングサ(天草)と凝縮されたようです。 しかし「両児島」が「天草」に変わったのは、上述のように楊貴妃が漂着した700年代の中頃なのだから「海藻の名を付けた」という説の真実性はきわめて薄い。 海人族の字をとったことなどは、さらに信憑性が低くなります。海人は当時「アマ」と読んだが、これは漁師の一族ということで、古事記にも記されているとおり天草に限らず全国の島しょ部に居住していました。したがって、天草だけが漁師の文字を郡名にしたとは考え難く、付けたとしても、せいぜい魚村か岬か小さな島の名前くらいでしょう。 そもそも「天草」の島々は、神代の昔に伊邪那岐神(イザナキノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)夫婦の子供として創造されたのだから「両児島」はきわめて由緒ある島名なのです。 天草には祭祀を司る国造(くにのみやつこ)のもと、代々の神々を祀る神社が密集していることからも、数多くの祭司に支配されていたと考えられ、そうしたなかで由緒ある「両児島」の名が海藻の名に替わるとか、漁師の名に替わるなんてことは絶対に許されることではない。 天草という島名の由来がこれら以外に見当たらないのであれば、楊貴妃が天草を持って降臨したとか中国から渡来したことは伝説ではなく、ある程度は事実ということになる。 そして現在、タテンハナのあった神話郷は新和(しんわ)という町名に変わり、楊貴妃の社があった場所には楊貴妃という字(あざ)を残しており、最近になって島民の真心によって、遠くを眺めるスリムな楊貴妃の銅像が建てられている。 (楊貴妃が激やせした理由を検証⑦) |
ふっくらした中国西安楊貴妃像 |
スリムな天草の楊貴妃像 |
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天草楊貴妃銅像 |
天草銅像碑文 |
天草楊貴妃伝説|天草漂着
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