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開発者自伝
冬虫夏草で癌にリベンジ_01
冬虫夏草で癌にリベンジ(1)
肝臓ガンの父親にリベンジを誓う

日本自然療法協会の創始者で「食事革命」を提唱する川浪が冬虫夏草の研究開発を始めたのは、深い悲しみの出来事がきっかけだった。あれは今から30年ほどさかのぼる、昭和57年春のことである。

「身体に鉛が入ったように重い」と父親が不調を訴え、すぐに検査をしたところ肝臓癌、しかも余命3ヶ月という厳しい診断である。
旧満州(中国遼寧省鞍山市)に生まれ育ち、終戦1年後に日本に引き揚げ広島県庁に勤めて10年。
原爆で廃墟と化した広島の復興に身を削り、無理に無理が重なって肝硬変を患って、以来25年間ずっと病床にあった父親。
長生きしてもらいたい、大好きな広島カープ観戦や温泉旅行にも行ってもらいたい、の一心から癌を克服できる「何か」を探し求めた。
インターネットのない時代だから、情報を集めるのに随分と苦労した。
丸山ワクチン、抜毒丸、ビワの葉、クマザサなどいろいろと試みたが、坂道を転げるように病状は悪化。
4月26日早朝に永眠、享年67才。
「何もしてあげられなかったね。引き続き、癌を克服する何かを探して必ず癌にリベンジするから、成仏してください」
じっと涙をこらえ、川浪は静かに眠る父親に誓いを立てた。
建設土木・建機・設計・不動産・バイオ開発などの会社を多角経営していたが、役員会、株主総会で辞意を表明し全権を実兄に譲り、退路を断って、癌に打ち勝つ「何か」を探す旅に出る。
キノコ菌が癌を克服するかもしれないという情報を伝え聞いて、薬膳キノコの研究を思い立ち、まず最初に向かったのが4000mに届く山々がそびえる台湾だった。
この島には2年前の40才の時に、台中市の養鶏組合からの要請で子会社の培養酵母(梅の切株に繁殖する酵母)を試験供給した縁があった。
その筋から調べてもらうと、薬膳キノコの研究を手伝ってくれる研究所が阿里山にあるという。
早速、キノコのメッカといわれる阿里山に向かい、山深くの研究所を紹介された。
英語も台湾語も満足に喋れない男が、たった一人、手探りで研究を始めることとなる。
その時、42才。

日本の自動車免許じゃ台湾では運転できないから、ホテルも探せない。阿里山には知り合いもいないのだから、送迎も無理。幸いなことに研究所には、守衛が寝泊まりしていた部屋があるという。したがって、そこに泊めてもらうよりほかに道がなかった。
もちろん、人里離れた施設だから夜になると人っ子一人いなくなる。
つい前日までは広島の繁華街、流川や薬研堀で毎晩のように華美な夜を過ごしていた男が、ただ一人、異国の、しかも人里離れた山中の暗く寂しい、施設の小部屋に寝泊まりすることになる。
日本語の新聞もテレビも、日本料理も、言葉を喋る相手もいないという孤独な生活。
1週間もたたないうちに、あまりの寂しさに気が狂いそうになった。

阿里山の夜空は、あまりにも暗い。
工場群から排出される環境を度外視したバイ煙で、自然豊かなこの地でも輝く星空が失われていた。
重たい静寂の中で時折、木葉が擦り合う音が無数に重なって「ドド~」と響く山鳴りとなる。
そんなある夜、遙か先に停まった自動車のオーディオからだろうか、耳懐かしいメロディが流れてきた。その透きとおった美しいメゾソプラノに心が震え、窓に走り寄ってガラスに耳を押しつけ、脳裏に刻まれていた日本語の歌詞をなぞった。

「夜の新宿裏通り
  肩を寄せ合う通り雨
 誰を恨んで濡れるのか 
  逢えば切なく別れが辛い
 しのび逢う恋 涙恋」

この歌は確か八代亜紀・・・
こちらの言葉に吹き替えられてはいるが、あの「なみだ恋」に違いない。
煌めく歌声が深く胸にしみていた。
やがて、歌声とともに紅いテールランプが小さく揺れながら遠のいて行く。
「待ってくれ、もう少し聞かせてくれ」
錆び付いた窓を必死にこじ開け呼び止めようとしたが、一陣の突風が吹いてきて、山鳴りとなってその声を掻き消してしまった。
胸の奥に押さえ込んでいた郷愁と身の切なさが一挙に押し寄せ、涙となって溢れ出し、頬を伝って暗いガラスを濡らした。
親父の死にも涙しなかった男が、臆面もなく、声をあげて泣いた。


膨らむ台湾の甘い夢

それから2ヶ月、阿里山の中腹にある田舎町の小さな旅社(旅館)にベースを移した頃から、川浪は村の主役になっていた。
毎晩のように、周辺の若者が迎えに来ては村の居酒屋に行き、陳年紹興酒にライムを搾って酌み交わし、騒いだ。
施設の暗闇で聞いた「なみだ恋」は、街角のどの酒場でもよく耳にした。大ヒットを続けるこの歌は、鄧麗君(テレサ・テン)が北京語でリリースした「甜蜜的小雨」だと分かる。
歌が聞こえる度に、とっくに忘れたはずの郷愁が膨らんで、眼の奥が緩んだ。
それから半年、結果的に気を通じ合った仲間と共同でキノコ菌培養研究所を立ち上げることになる。
阿里山に自生するキノコを培養(1株のキノコから数百株の優秀なキノコを発生させる技術)し、菌床(キノコを発生させる栄養塊)に仕立てて日本に輸出するというビジネスが目的だった。
菌床製造に関する費用は台湾の友人が出資し、菌糸育成のためのハウスというか倉庫というか、については川浪が出資することとなった。
台湾人たちは川浪に金のないのを見越してか、皆んなで廃材を持ち寄り棟上げをして、屋根には分厚く茅を吹き、壁には農業用の黒いマルチシートを張って、まるでジャングルの原住民の住み家のようなハウスが建った。
そして川浪に託されたのは、この菌床栽培を日本で普及させるという大役だった。
当然のように、阿里山と日本の往来が度重なり、そして折しも立ち寄った世界随一を誇る漢方薬問屋街・台北迪化街の馴染みの薬房(漢方薬店)で、人生を大転換させるビッグニュースを耳にすることになる。ドイツのシュツットガルト市で開かれた世界陸上競技大会の驚くべき結果。
無名だった中国女子陸上チームが、大舞台の中距離競技で次々と金・銀・銅メダルを独占したという快挙を知ることとなった。

彼女たちは、海抜3000mを超える中国青海省の青蔵高原(チベット高原)でスッポンと漢方薬のスープを飲みながら雨の日も風の日も休み無く、日々40キロを走破するという猛特訓に耐えて鉄人となったという。
神秘と言われるこの漢方薬とは、悠久4000年に亘って歴代皇帝が独占したと伝わる不老不死の上薬だった。
当院の漢方医いわく「運動活性のみならず、息の病にも血の病にも効能は絶大。癌の特効薬としても名高い」と。
その漢方薬こそ、冬虫夏草。
「冬は昆虫だけど、夏には草となって地上に姿を現す」神々しいまでのこの生薬が「キノコ」と聞かされて、強い衝撃に身体が震えた。
これだ、探し求めていた阿里山の薬草とは冬虫夏草だったんだ。ついに、あの夢にまで見た薬膳キノコに出会えた。

冬虫夏草は、台湾の、前人未到の渓谷にも自生しているという。
さっそく、研究所の近くの渓谷に入って這いつくばって探してみると、自生する冬虫夏草らしきものを何本か発見することができた。
これを培養し菌床にして日本に送り、栽培によって発生させれば「神秘といわれる冬虫夏草」が日本でもどんどん収穫できるようになる。
そうなれば癌患者だけでなく、喘息持ちにもアスリートにも大きな夢と希望を与えることが出来る、と喜び勇んで研究を始めた。
ところが、冬虫夏草の培養はアワビタケやエリンギのように簡単ではなかった。
過去には何のデータもないのだから、行き詰まると自分で乗り越えて行かねばならない、それこそ前人未踏の領域なのである。
冬虫夏草は昆虫に寄生するキノコだから昆虫に冬虫夏草の組織を植え付ければよいのだろうが、どの様に工夫しても、チョロチョロと髪の毛ほどの子実体(キノコの柄の部分)しか出てこない。
こんな弱々しい子実体では、多数株に増殖(採取した子実体をもとに、培養して株数を増やす作業)して大規模栽培をめざそうなんて、夢のまた夢でなのある。求めるものは、自然界で自生しているようなプリプリした弾力性のある冬虫夏草を、この手で作ることにある。
進むべく道のりが限りなく遠く感じられた。
喜々として取り組んだはずなのに、1年が過ぎるころには挫折感の方が大きくなりだし、そしていつの間にか、研究が疎かになっていた。

幸いにも、キノコ菌床のビジネスは驚くほど順調だった。
日本に代理店も出来て、毎月6~10コンテナが阿里山から日本に送られる。
その当時の日本のキノコ栽培といえばシイタケが殆どで、ホダ木に椎茸菌を打ち込んで林の中で発生させる、という自然栽培が主流だった。ところが、サルやイノシシの野獣被害やあまりの重労働から作業員が減ってきて、徐々に衰退している様相を呈していた。
一方、川浪が進める「菌床栽培」という、栽培環境を人為的にコントロールしてキノコを発生させる技法は野獣被害もないし比較すると軽作業でもあった。
それにこの分野は殆ど手が付けられておらず、これから始まるといった栽培法なのである。
したがってこれを本格的ビジネスとして取り組んだのは、川浪が日本でも草分け的な存在だったようだ。
事業として、伸びしろはこれからだ。
「日本も近々、本格的なキノコの時代が来る。身体に良いいろんなキノコがスーパーマーケットの店頭に並んで、大衆は、体調に応じたキノコを選んで食べることで健康を取り戻すようになる」と、うれしい予測を立ててみた。
50才を期して、川浪は勝負に出た。



一夜にして消えた台湾ビジネス

台湾の南端に、台北に次ぐ第2の都市・高雄市がある。そこには、台湾M商事のトップT氏に紹介してもらった蔡明達という男がいた。 蔡は市内中心部に大きな事務所を開いており、M電気グループの代理店として繁盛していた。
話しによると、M電機の発電機を高雄付近の漁船に装備させていたそうで、Mのネームバリューもあってどんどん売れていたという。
流ちょうな日本語を話し、白いベンツを乗り廻して羽振りがよく、人柄も申し分ない。どちらからともなく「兄弟!」と呼び合ってとても親しくしていた。
そういう関係から川浪は、蔡の公司に阿里山~高雄港~日本港の物流と台湾通関を任せることとなり、1貨物(40Fリーファ)あたり50万円を蔡の会社口座に振り込んでいた。
通関物流費と蔡の公司の手数料で約34万円ほど、残り16万円余は、翌年にでも必要になるであろう高雄国際港に近い場所の菌糸培養棟建設資金である。
これを蔡と合弁合作(共同出資・共同運営)するための資金として、蔡の公司にプールしていた。
実現すると貿易数量が一気に拡大できるし、その上に蔡に気兼ねなく、蔡の公司の一室に川浪の台湾事務所をオープンすることが出来る。貿易数量アップと信用拡大に向けて、これ以上の方策はないと思っていた。
続く一手として、日本の栽培者や販売代理店を台湾に招いて施設を視察してもらい、計画を披露し、蔡をはじめとする関係者との顔合わせを行った。
そうして何とか毎月20コンテナ輸出できるよう、販売に力を入れてもらいたいとの方針を語った。
そこまで行きつくと創業当初の目標であった年間1億円の粗利がはじけるから、例え異国の地であっても行き詰る心配はあるまい。
そして阿里山の雄大な自然のさ中で、台湾娘と出会って結婚して楽しく暮らしたいな、との夢が大きく膨らんでいた。
だが「運命」という強い力が、甘い想いを完璧に打ち砕いた。

1999年9月21日未明、台湾で未曾有の大地震が発生したのである。
川浪はその日、福岡空港から台湾に戻る予定を急遽変更して、中国大連市に飛んでいた。その街の中心、中山広場にほど近いブーラン(博覧)大酒店は、川浪の定宿であった。 未明から心臓の動悸が高まって、眠ろうにも眠れない。 ホテルの裏通りには、朝4時になると朝市が立ち始める。裏通りに面した部屋だったので、騒々しさも伝わってきて完全に目が覚めた。
「やっと5時か、ニュースでも見るか」
テレビをつけて、NHK海外プレミアムにチャンネルを合わせると、いきなり大きな字幕が飛び込んできた。
「台湾で大地震!」
続いて、台北市松山空港近くの13階のマンションが陥没した大穴の中に崩れてゆく衝撃の映像が映し出された。
「何だこれは、もの凄い地震じゃないか。胸騒ぎの原因はこれだったのか・・・」
食い入るようにテレビを見続けると、次第に震源地が明らかになってきた。どうでも阿里山を縦断する車籠埔(チェロンプ)断層が滑ったらしい。
「なんということだ」と、川浪は飛び起きた。
震源はまさしく、培養施設の真下ではないか。
そこはジュジュ(集集)鎮とプーリ(埔里)鎮のほぼ中間にあたり、断層に沿って亀裂が走って地盤には高さ1mに及ぶ段差が発生しているという。

急遽、福岡空港を経由して台湾に飛んだ。
台北から来てもらった車に乗り、桃園国際空港から台中市を経由で阿里山に向かうと草屯鎮で行き止まりとなり、とても現地までは辿り着けそうもない。
少しでも震源地に近づこうと脇道を走った川浪は、変わり果てた地獄の光景を目にした。木も草も土も崩れて黒い岩肌が剥きだしになり、道路が落ちて川が埋まり、川沿いの集落はその土の下になったということだ。多くの人が生き埋めなのだろう。
これ以上、前に進むことは不可能だった。携帯電話をかけてみても、阿里山の友人たちだけでなく高雄の蔡明達の電話も繋がらない状態である。
山を下ってくる人々の情報をつなぎ合わせてみると、川浪の施設は倒壊し、流れを変えた河に呑まれて跡形もなく消えたという。 どうにもならず、取りあえず台北まで帰ってホテルに入った。
「どうすれば良いのだろうか」
頭の中が真っ白になっていた、あまりの急変に思考がついていかないのだろう。せめて蔡明達でも相談できたら、頭の中の整理ができるのだろうに・・・
苛々がつのっていた。

蔡と電話が繋がったのは、夜10時をまわった頃だった。

「兄弟、大変なことになりました」
蔡の第一声は、震えていた。川浪はきっと、地震のせいだと思った。
少し間をおいて蔡はつづけた。
「私は今月、倒産しました。漁船の発電機のリコールがでて、M電気は何もしてくれないね。だから私の公司で弁償してます。もうお金がないし、公司も閉めることにしました。兄弟の預金も私、使いました。必ず立ち直って返済しますから許してください」
思ってもいない言葉に、川浪は言葉を失った。
蔡に預けた金の問題ではなかった。ほんの1週間もたってない間に台湾がひっくり返ったような大どんでん返しが、我が目前で起きているという衝撃的な現実にである。
「復興には最低でも3年、いや5年は掛かるだろう」と、眠れぬ夜を過ごした朝のテレビには、繰り返し繰り返し何度も、政府幹部のコメントが流れた。

6年に亘って築いた台湾キノコ菌培養プロジェクトはわずか一夜にして消え、日本向けビジネスと阿里山に築いた基地も、膨らんでいた甘い夢も全てが微塵にはじけた。 そして同じく、心の中で燃えさかっていた台湾の灯も一気に消えた。



台湾から中国遼寧省へ

川浪一族と中国の縁は深い。
祖父・武次は有田焼で有名な佐賀県の有田から、日露戦争の終結と同時に中国に渡り、不動産開発の事業を始めたという。
満州国が建国されると多くの日本人が満州に渡り、祖父が建てた居宅を買ったそうだ。
そして父親が誕生して5年、大正8年(1919年)に祖父は落命したそうだが、誰も骸は見てないし死因すら分かっていないという。
ただ言えるのは、ただ者ではなかったということである。
父親が産まれて敗戦になるまで、武次と一緒に中国に渡ったという従兄弟の川浪勝一が、毎年のように桑折(こうり)箱いっぱいに詰められた満州紙幣を何個も馬車に積んで届けに来たという。
そのお陰で祖母・コトメと父親は広大な家に住み、使用人を5~6人も雇って何不自由ない贅沢な暮らしをした。
遼寧省大石橋(ダァシィチャオ)の満鉄駅から北に、馬車で1時間たらずの街に生家があったと祖母は話していた。

母親の父は、広島警察可部署の青年幹部だったようである。
ソ連国境に入植する日本の武装移民団を警護する任を負って、黒竜江省佳木斯(チャムス)の副市長として赴任。
終戦直後に南下を始めたソ連軍の楯となって入植者を逃がし、その後に、捕まって銃殺されたと記録が残る。
しかし、逃げたはずの祖母と母親の兄弟たち4人は、生死すら確認できていない。

その中国政府共産党に川浪が招かれたのは、台湾大地震が起きる2年前だった。
「中国食用菌協会で食用菌(キノコ)の世界探訪について講演をお願いしたい」とのオファーが党幹部から寄せられて、何かに強く引かれる思いで中国の土を踏んだ。
政府官僚、共産党幹部、食用菌学者、培養技術者らで構成する組織の協会員が約300人ほど集まって「過疎地を再生する薬膳食用菌」の話を興味深く聞いてくれた。
以来、2年続けて講演をこなしてその道では有名人となり、各地に友人が出来た。
内蒙古や河南省からも招聘が入ってきて、川浪が訪てゆくと政府、党幹部ともに喜び、昼も夜も豪華料理三段重ね(回転テーブルに料理皿を並べ、その皿と皿の上に二段目の料理、またその上に三段目の料理が重ねられる、もっとも豪華な設営)の宴会を催してくれて、五粮液(ウゥリャンイ)という最高級白酒の「乾杯」を夜が更けるまで重ねた。

その中国から、阿里山の夢を失った川浪のもとにFAXが届いたのは、帰国した翌朝である。
仕事も夢も失って呆然とした男のデスクのFAX機が、カタカタと軽い音を立て始めた。
「全人代(全国人民代表大会)の政策の一環として、過疎地の振興にキノコ栽培を取り入れたい。是非とも指導してほしい」
偶然かも知れないが、まるで帰国を何処かで見ていたかのような絶妙のタイミングなのである。
FAXの送信者は、父親が生まれ育った大石橋にほど近い地方政府の通訳代理人からである。
この政府の青年幹部たちとはとくに親しく、幾度となく盃を酌み交わした仲である。それに、父親の匂いのするような、何か心が沸き立つような想いもあった。
断る理由など有るわけもない、川浪は勇躍、中国に渡った。

広大な自然と向き合いながら取り組もうとしたのが、冬虫夏草の開発と冷暖房不要の椎茸菌の研究開発だった。
間もなく、川浪を招聘した地方政府が「冷暖房不要のシイタケ」の事業化を決めて、大きな予算を投じることとなる。
夏期のシイタケ不需要期(日本では)に、美味しい肉厚のどんこシイタケ(大分県などで冬にしか採れないシイタケ)を涼しい中国東北地方で育てて、日本各地の青果市場に供給するという計画。
これを先ず成功させると、次に中国東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省・内蒙古)のシイタケ栽培の近代化と、その核となる乾シイタケ国際市場を設立する。
いわゆる、過疎地と呼ばれる東北部の寒冷地域で春から秋にかけて栽培し、乾シイタケ(花どんこ)を作って大連周水子空港、または瀋陽桃仙国際空港からほど近い場所に巨大な乾シイタケ市場を建て、日本、台湾、香港、シンガポールなどから訪れる華僑や世界中の椎茸バイヤーに販売するという川浪の立案した壮大なプロジェクトである。
トウモロコシの生産に陰りが見えてきた寒冷過疎地の農民経済復旧はこの一手しかないと、党の幹部たちも着目した大構想が、いよいよ具体化するのである。

地方政府は哈爾浜(ハルピン)に向かう高速道路ICを下りてすぐ右の広大な用地に54棟(216万菌床)ものシイタケ栽培ハウスを建て、いよいよプロジェクトの第1幕が切って落とされた。
日本にPRすると、日本農業新聞が大々的に報じてくれて、それをきっかけに商社、食品流通業者などが続々と視察に訪れることとなった。
川浪はツアーを組んで、これに対応することになる。
「遼寧省キノコ村商談ツアー3泊4日、参加費15万円」
往復航空券・ホテル・豪華海鮮料理など全食事付・一流クラブ2夜・マイクロバス、全て含んでこの価格である。
地方政府とは、航空券など日本国内費用は川浪が払って宴会とホテル代など中国滞在費は政府が払う取り決めだった。
豪華すぎるツアーとの噂が噂を呼んで、申込みが殺到。
毎週20~30人が訪れて、マイクロバス1台では間に合わない時期もあった。
航空券を団体購入で5万円余、残った10万円近くが川浪の実質収入となるのである。
その上に、プロジェクトへの出資をする企業もあり、わずか1年足らずで8000万円余の軍資金が集まった。
これを資本に、現地に政府幹部と合弁合作公司を設立。
椎茸分級加工場に最新鋭の自動椎茸包装機2セットを日本から導入して商品化ヤードを設備。
そして2000年9月、これらの輸出を一手に担う貿易会社・大連渓流国際貿易有限公司を大連市西崗区新開路に設立、川浪は董事長総経理(代表取締役社長)に就任して、日本さらには世界に向けた本格的な歩みを開始したのである。

計画がスタートして18ヶ月、2001年4月12日、計画と寸部も狂わずに収穫が始まり、春祭と間違うほどの多くの農民たちが参加して選別、トレー盛りつけ作業が始まった。
最新鋭の日本製自働パック機が高速でうなり、次々と生シイタケをパック包装してゆく。
これなら、日本の厳しい品質管理にも充分に対応できる。
大成功だ、もう何も危惧することはない。

大連貿易港を見下ろす高台に集合した川浪と政府幹部たちは、記念すべき第1船、どんこシイタケ6万パックを積載したコンテナ船が門司港に向けて出航するのを見送った。
低く太い汽笛を鳴らし、茜色の夕陽をあびながら渤海(ブゥハイ)の水平線に消えてゆく船を、暗くなるのも忘れて眺めた。
これから日本のシイタケの収穫が始まる10月まで、毎日3コンテナもの「花どんこ」をパック包装して出荷する。
夏季に肉厚のどんこシイタケなんて、食べたことも見たこともない日本市場。
しかも、極寒地のクヌギをチップにして発生させるのだから弾力性と豊かな芳香、グアニュール酸がたっぷり詰まった極上の逸品である。
日本で人気が高まることは間違いない。
しかもこのシイタケ、絶体に他社では真似が出来ないオリジナル菌種である。
「これで夏期のシイタケ市場は握ったようなもの」と水平線に消えていった船を目で追いながら、川浪は満足の笑みを浮かべていた。
そしてその時には、頭の中に1片の冬虫夏草も存在していなかったのである。



夢を砕いたセーフガード

日本の荷受け会社から緊急連絡が入ったのは、出航から3日目の2001年4月17日だった。
「日本政府が今日、セーフガードを発効しました。関税が200%もかかるから引き取れない。コンテナをそのまま大連港に返します」
・・・何を寝ぼけたことを言ってるのか、セーフガードってなんだ。今日の今日まで聞かされてないぞ、初耳じゃないか。
川浪は電話口で怒鳴った。

夢を見ているようだった。
台湾を引き上げてすぐ、1999年10月から始めたシイタケ・プロジェクト。
以来18ヶ月の間、全知全霊を傾けてきた。
凍れた冬の日には、-20℃の極寒の中でシイタケ菌床を凍らせないために、ハウス屋根に登ってムシロ掛けの陣頭指揮をした。
小さなシイタケの芽が出ると、薄暗いハウスの中で3~4日も立ちっぱなしで、袋切りの方法を指導した。
収穫した生シイタケの選別、トレーの盛り方、レッテルのデザインも全て自分流で行った。
この子たちが日本のスーパーマーケットに並び、焼鳥屋の籠の中にもどさりと盛られ、その香しさと食感に感嘆のため息がもれることだろう。そんな想像を膨らませながら頑張ってきたのに、数百トンを出荷するつもりが、1パックも日本に上陸することもなくコンテナのまま大連港にUターンするというのだ。

事情を調べてみると、中国南方産の安いシイタケに悩まされる群馬県のシイタケ栽培業者から票を集めようとする参議院議員が、組織票をまとめるために仕組んだことだと分かった。
そんな馬鹿なこと・・・
日本のシイタケ栽培者に迷惑を掛けているのは福建省・浙江省の産地からシイタケを買い付ける日本人バイヤーだろう。そちらの収穫は10月から翌年3月だから、日本のシイタケ収穫時期と重なる。
だけどセーフガード(輸入制限)は、福建省や浙江省の収穫が終わる4月から始まっている。これからの時期には日本もシイタケがなくなるし、他の南方シイタケの輸入もない。
・・・
ということは、恐らく、中国政府に気を遣って影響がない時期を狙ってセーフガードを発効したに違いない、見せかけの制裁。
だけどその影響が、全て、日本人である川浪に来た。

川浪は早速、日本に飛んだ。
農林水産省林野庁と掛け合っても、通産省と掛け合ってもビクともしない。
思いあまって、前総理財務大臣だった宮沢事務所に飛び込み、ちょうど居合わせた大臣に直訴した。
「どうしてもやりたいというから、それならおやりになったら、と言ったよ。あとで後悔するだろうけど」
大臣はニヤニヤ笑いながら応えた。

冷たい霧雨が降る永田町を、とぼとぼと歩いた。
「もう、諦めるしかない」
またもや大成功を目前として、一挙に崩れ落ちてゆく成就の道。
台湾大地震による一夜の瓦解、続いて、予想だにしなかった日中政治の障害。

50才にして、行く手に立ちはだかる巨大すぎる壁。
3年間で2度に及ぶ大きな挫折と屈辱を経験するとは、何という異常事態、何という運命なのだろうか。
しかも、異国の寒空の下で身に降りかかった致命的な大敗北である。
これも試練なのか?
残される道は・・・
何もかも捨て去って日本へ逃げ帰るか、或いは、意地でも中国にへばりついて、遮二無二、キノコをやり続けるかの二者択一。
でも、逃げるわけにはいかない。
セーフガードで迷惑を掛けた地方政府と解決しなければならない問題が山積みだし、日本の出資者への対応もこれから始まるのだから。
結局、川浪は中国に残る道を選んだ、いや、厳密にいうと、選ばざるを得なかったということだろう。

プロジェクトの後処理が始まった。
売り先を失ったシイタケ数百トンが谷に廃棄され、豚や野鳥のエサになったと聞く。
不幸中の幸いというか、地方政府との約定も日本の業者との契約でも、両国政府の貿易摩擦が原因となる不履行には、賠償も弁済義務も課せられていなかった。
しかし、川浪は可能な限り全ての手持ち資金と合弁資産、営業財産を弁済に充てた。
そして整理がほぼ終わった時点で、公司に残った金は10万人民元(150万円)にも満たない少額になっていた。
外国で金が無いのは、首がないのと同じだと言われる。 どうやって立て直したらよいのか、毎日毎夜、思案が続いた。
何かが欠けていたのだろう。
全身全霊を注ぎ込んだはずの川浪に、何の欠点があったのだろうか思い起こしてみて、そこを変えてゆかない限りは、再起してもまた瓦解してしまう。

台湾プロジェクトは何故、一夜で崩壊したのか?
シイタケは何故、わずか1週間で瓦解したのか?
プロジェクトの正当性、資金の集まり具合、スタッフや協力者、ノウハウ、地の利、販路、川浪の打った手には絶対にミスはなかった。
とすれば残る一つが、運命?

「運命」という、川浪には絶対に見えなかった巨大すぎるパワーが、頭に浮かんでは消えた。
・・・ そういえば台湾では、鮑魚菇(パオイグゥ)という阿里山に自生するキノコを菌床にして日本に出荷し、そして軌道に乗ったと思い込んだその時点では、父親に誓ったリベンジの言葉も、冬虫夏草のことも完全に忘れて、甘い夢を見始めていた。
中国に来てもそうだった。
シイタケプロジェクトの成功の道筋で、冬虫夏草の研究という生涯目標が完全に頭の中から消え失せて、満足感に浸り有頂天になっていた。
そういった時に襲いかかった「大どんでん返し」という、あまりにも厳しすぎる仕打ち。

そういえば、あれもそうだった。
川浪は、若かりし頃の広島の記憶を辿っていた。
事業を拡大しながら政治の道を志し、地元の市議会議員の集票マシンとなってスタートを切ったのが、28才の時。
運動員の統率力と演説度胸を国会議員にも認められ、地元の町内会長や婦人会長、住民たちにも背中を押されて、県議会議員に立候補する腹を固めつつあった。
広島市中区の西半分、およそ15万人といわれる大票田に県会議員として立候補するのは、川浪ただ1人。
「由友の会」と称する広島の芸能文化を支援する企業の会を結成し中心となって活動して、県・市会議員や中区に支店を置く多くの大手企業・団体も参加してくれた。
そんな時に起きたのが、町内で勃発した居直り強盗事件。 たった一人で前科13犯を追い詰めて捕まえ、これがテレビや新聞で大きく報道されて、勇気と強さも評判となった。
しかも根っからの叩き上げだから、ローラー作戦やどぶ板選挙など票の掘り起こしも得意。その上に、票集めに苦しむときに行った数々の裏工作(これは今でも絶対に秘密だけど)も率先垂範してきた。
その川浪の県議会議員選挙は中区で定員2名、中区の東半分を拠点とする現職1名と西半分をまとめる川浪と、他に誰かが立ったとしても川浪が1万2千票をかき集めれば当選なんだから、目をつぶっていても勝てるという確信があった。
いや専門筋では、川浪が立てば、3人目は誰も立つことはないという見方をしていたという。
市内高級住宅地に4階建てのビルを建て、3階のフロアーに政治活動のための事務所をキープ。 立候補の意志は誰にもしゃべってないのに、何故か、ぞくぞくと支援者が集まってきた。 あとは、2ヶ月後に迫った選挙を待つだけ。
20年間、夢にまで見た無借金経営を実現し、その上に、バブルの崩壊を予測して高騰した土地を売り逃げして大きな利益も転がり込んできた。これで会社も安泰だと、全権を兄に譲って政治活動に専念しようと思っていた。
思い起こしてみると、あの時にも父親に交わしたリベンジの誓いなど完全に忘れていた。
その矢先に、いわば幸せの絶頂にあるべき時に、予想だにしなかった「大どんでん返し」が起こった。人気・信用・実力・資産・人脈など鉄壁だと思った20年の蓄積がわずか10日間で瓦解して、立候補を断念しなければならないはめになる。女性交遊とか、汚れた関係の発覚からではない。全く予想だにしなかった、宗教戦争である。
キリスト原理主義を信奉する妻や子らは、政治家のことを「サタン」といって忌み嫌う。

そんな家族たちに「立候補する」と胸の内を話した直後から、猛烈な妨害活動が始まったのだ。
信者数人を引き連れて、支援者となる長老たちの家々をしらみつぶしに歩いて廻った。そして「我々の宗教に入ってほしい」と勧誘し、何時間も粘るのである。
度重なる勧誘に、長老たちはぶち切れた。
「選挙も宗教も、どっちもさせるんね?」と、厳しいブーイングが巻き起こったのである。
怒りに身が震え、我慢に我慢を重ねていた最後の言葉が口をついてでた。
「別々の道を歩もう」
これが、家族と別れる最後の言葉となった。
大恥をかいて、人に馬鹿にされてまで広島に住み続けることは出来ない。全財産を放棄して、後を振り返ることなく広島を、いや日本を飛びだして、何かに導かれるように向かったのが台湾阿里山だった。
そして、冬虫夏草と出会う。
ということは・・・
「癌に打ち勝つ何かを見つけると、オヤジと約束したじゃないか。そして冬虫夏草を見つけたんだろう」
自分自身の叱咤の声に、ハッとなった。
「そうか、自分と冬虫夏草の間に強い運命の糸が絡みついているのだな。冬虫夏草を待ち望む多くの人たちの想いが太くて強力な糸となって、運命を操っているのだ」と気づいた。
「面白い、トコトンやってやろうじゃないか」
川浪は意を決した。
 冬虫夏草で癌にリベンジ(2)につづく



冬虫夏草で癌にリベンジ(1)
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