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開発者自伝
癌にリベンジが始まった
肝臓ガンの父親にリベンジを誓う

日本自然療法協会の創始者で「食事革命」を提唱する川浪が冬虫夏草の研究開発を始めたのは、深い悲しみの出来事がきっかけだった。
あれは今から30年ほどさかのぼる、昭和57年春のことである。
「身体に鉛が入ったように重い」と父親が不調を訴え、すぐに検査をしたところ肝臓癌、しかも余命3ヶ月という厳しい診断である。
旧満州(中国遼寧省鞍山市)に生まれ育ち、終戦1年後に日本に引き揚げ広島県庁に勤めて10年。
原爆で廃墟と化した広島の復興に身を削り、無理に無理が重なって肝硬変を患って、以来25年間ずっと病床にあった父親。
長生きしてもらいたい、大好きな広島カープ観戦や温泉旅行にも行ってもらいたい、の一心から癌を克服できる「何か」を探し求めた。
インターネットのない時代だから、情報を集めるのに随分と苦労した。
丸山ワクチン、抜毒丸、ビワの葉、クマザサなどいろいろと試みたが、坂道を転げるように病状は悪化。
4月26日早朝に永眠、享年67才。
「何もしてあげられなかったね。引き続き、癌を克服する何かを探して必ず癌にリベンジするから、成仏してください」
じっと涙をこらえ、川浪は静かに眠る父親に誓いを立てた。

建設土木・建機・設計・不動産・バイオ開発などの会社を多角経営していたが、役員会、株主総会で辞意を表明し全権を実兄に譲り、退路を断って、癌に打ち勝つ「何か」を探す旅に出る。
キノコ菌が癌を克服するかもしれないという情報を伝え聞いて、薬膳キノコの研究を思い立ち、まず最初に向かったのが4000mに届く山々がそびえる台湾だった。
この島には2年前の40才の時に、台中市の養鶏組合からの要請で子会社の培養酵母(梅の切株に繁殖する酵母)を試験供給した縁があった。
その筋から調べてもらうと、薬膳キノコの研究を手伝ってくれる研究所が阿里山にあるという。
早速、キノコのメッカといわれる阿里山に向かい、山深くの研究所を紹介された。
英語も台湾語も満足に喋れない男が、たった一人、手探りで研究を始めることとなる。
その時、42才。
日本の自動車免許じゃ台湾では運転できないから、ホテルも探せない。
阿里山には知り合いもいないのだから、送迎も無理。
したがって、研究所に泊めてもらうよりほかに道がなかった。
幸いなことに、守衛が寝泊まりしていた部屋があるという。
人里離れた施設だから、夜になると人っ子一人いなくなる。
つい前日までは広島の繁華街、流川や薬研堀で毎晩のように華美な夜を過ごしていた男が、ただ一人、異国の、しかも人里離れた山中の、暗く寂しい施設の小部屋に寝泊まりすることになる。
日本語の新聞もテレビも、日本料理も、言葉を喋る相手もいないという孤独な生活。
1週間もたたないうちに、あまりの寂しさに気が狂いそうになった。

阿里山の夜空は、あまりにも暗い。
工場群から排出される環境を度外視したバイ煙で、自然豊かなこの地でも輝く星空が失われていた。
重たい静寂の中で時折、木葉が擦り合う音が無数に重なって「ドド~」と響く山鳴りとなる。
そんなある夜、遙か先に停まった自動車のオーディオからだろうか、耳懐かしいメロディが流れてきた。
透きとおった美しいメゾソプラノに心が震え、窓に走り寄ってガラスに耳を押しつけ、日本語で脳裏に刻まれていた歌詞をなぞった。

「夜の新宿裏通り
  肩を寄せ合う通り雨
 誰を恨んで濡れるのか 
  逢えば切なく別れが辛い
 しのび逢う恋 涙恋」

この歌は確か、八代亜紀。
台湾語に吹き替えられてはいるが、あの「なみだ恋」に違いない。
やがて、歌声とともに紅いテールランプが小さく揺れながら遠のいて行く。
「待て、待ってくれ~」
錆び付いた窓を必死にこじ開け呼び止めようとしたが、一陣の突風が吹いてきて、山鳴りとなってその声を掻き消してしまった。
胸の奥に押さえ込んでいた郷愁と身の切なさが一挙に押し寄せ、涙となって溢れ出し、頬を伝って暗いガラスを濡らした。
親父の死にも涙しなかった男が、臆面もなく、声をあげて泣いた。


膨らむ台湾の甘い夢

心の奥に貼り付いたあの歌は、鄧麗君(テレサ・テン)が北京語でリリースした「甜蜜的小雨」だと分かる。
大ヒットを続けるこの歌が聞こえる度に、とっくに忘れたはずの郷愁が膨らんで眼の奥が緩んだ。
それから2ヶ月、阿里山の中腹にある田舎町の小さな旅社(旅館)にベースを移した頃から、川浪は村の主役になっていた。
毎晩のように、周辺の若者が迎えに来ては村の居酒屋に行き、陳年紹興酒にライムを搾って酌み交わし、騒いだ。
結果的に、気を通じ合った仲間と共同でキノコ菌培養工場を立ち上げることになる。
阿里山に自生するキノコを培養(1株のキノコから数百株の優秀なキノコを発生させる技術)し、菌床(キノコを発生させる栄養塊)に仕立てて日本に輸出するというビジネスである。
菌床製造に関する費用は台湾側が出し、菌糸育成のためのハウスというか倉庫というか、については川浪が出資することとなった。
台湾人たちは川浪に金のないのを見越して、皆んなで廃材を持ち寄り棟上げをして、屋根には分厚く茅を吹き、壁には農業用マルチシートを張って、まるでジャングルの中の原住民の住み家のようなハウスが建った。
そして川浪に託されたのは、この菌床栽培を日本で普及させるという大役だった。

当然のように、阿里山と日本の往来が度重なりだした。
そして、折しも立ち寄った世界随一を誇る漢方薬問屋街・台北迪化街の馴染みの薬房(漢方薬店)で、人生を大転換させるビッグニュースを耳にすることになる。
ドイツのシュツットガルト市で開かれた世界陸上競技大会の驚くべき結果である。
無名だった中国女子陸上チームが、大舞台の中距離競技で次々と金・銀・銅メダルを独占したという快挙を知ることとなった。
彼女たちは、海抜3000mを超える中国青海省の青蔵高原(チベット高原)でスッポンと漢方薬のスープを飲みながら、雨の日も風の日も休み無く、日々40キロを走破するという猛特訓に耐えて、鉄人となったという。
神秘と言われるこの漢方薬とは、悠久4000年に亘って歴代皇帝が独占したと伝わる不老不死の上薬。
当院の漢方医いわく「運動活性のみならず、息の病にも血の病にも効能は絶大。癌の特効薬としても名高い」と。
その漢方薬こそ、冬虫夏草・・・
「冬は昆虫だけど、夏には草となって地上に姿を現す」
神々しいまでのこの生薬が「キノコ」と聞かされて、強い衝撃に身体が震えた。
これだ、ついに探し求めていた薬膳キノコに出会えた。

さっそく、阿里山の山深くに這いつくばって探してみると、自生する冬虫夏草らしきものを何本か発見することができた。
これを培養し菌床にして日本に送り、栽培によって発生させれば「神秘といわれる冬虫夏草」が日本でもどんどん収穫できるようになる。
そうなれば癌患者だけでなく、喘息持ちにもアスリートにも大きな夢と希望を与えることが出来る、と喜び勇んで研究を始めた。
ところが、冬虫夏草の培養はアワビタケやエリンギのように簡単ではなかった。
過去には何のデータもないのだから、行き詰まると自分で乗り越えて行かねばならない前人未踏の領域なのである。
冬虫夏草は昆虫に寄生するキノコだから昆虫に冬虫夏草の組織を植え付ければよいのだろうが、どの様に工夫しても、チョロチョロと髪の毛ほどの子実体(キノコの柄の部分)しか出てこない。
こんな子実体では多数株に増殖(採取した子実体をもとに、培養して株数を増やす作業)して大規模栽培をめざそうなんて、夢のまた夢である。
求めるものは、自然界で自生しているようなプリプリした弾力性のある冬虫夏草をこの手で作ることである。
進むべく道のりが限りなく遠く感じられた。
そして、いつの間にか研究が疎かになっていた。

幸いにも、キノコ菌床のビジネスは驚くほど順調だった。
日本に代理店も出来て、毎月6~10コンテナが阿里山から日本に送られる。
その当時の日本のキノコ栽培といえばシイタケが殆どで、ホダ木に椎茸菌を打ち込んで林の中で発生させる、という技法が主流だった。
川浪が進める「菌床栽培」という、栽培環境を人為的にコントロールしてキノコを発生させる技法は殆ど手が付けられておらず、これを本格的ビジネスとして取り組んだのは川浪が日本でも草分け的な存在だったようだ。
事業として、伸びしろはこれからだ。
「日本にも近々、本格的なキノコの時代が来る。身体に良いいろんなキノコがスーパーマーケットの店頭に並んで、大衆は体調に応じたキノコを選んで食べてもらい、健康を取り戻すようになる」と、うれしい予測を立ててみた。
50才を期して、川浪は勝負に出た。



一夜にして消えた台湾ビジネス

台湾の南端に、台北に次ぐ第2の都市・高雄市がある。そこには、台湾M商事のトップT氏に紹介してもらった蔡明達という男がいた。 蔡は市内中心部に大きな事務所を開いており、M電気グループの代理店として繁盛していた。
話しによると、M電機の発電機を高雄付近の漁船に装備させていたそうで、Mのネームバリューもあってどんどん売れていたという。
流ちょうな日本語を話し、白いベンツを乗り廻して羽振りがよく、人柄も申し分ない。どちらからともなく「兄弟!」と呼び合ってとても親しくしていた。
そういう関係から川浪は、蔡の公司に阿里山~高雄港~日本港の物流と台湾通関を任せることとなり、1貨物(40Fリーファ)あたり50万円を蔡の会社口座に振り込んでいた。
通関物流費と蔡の公司の手数料で約34万円ほど、残り14万円余は、翌年にでも必要になるであろう高雄国際港に近い場所の菌糸培養棟建設資金である。
これを蔡と合弁合作(共同出資・共同運営)するための資金として、蔡の公司にプールしていた。
実現すると貿易数量が一気に拡大できるし、その上に蔡に気兼ねなく、蔡の公司の一室に川浪の台湾事務所をオープンすることが出来る。貿易数量アップと信用拡大に向けて、これ以上の方策はないと思っていた。
続く一手として、日本の栽培者や販売代理店を台湾に招いて施設を視察してもらい、計画を披露し、蔡をはじめとする関係者との顔合わせを行った。
そうして何とか毎月20コンテナ輸出できるよう、販売に力を入れてもらいたいとの方針を語った。
そこまで行きつくと創業当初の目標であった年間1億円の粗利がはじけるから、例え異国の地であっても行き詰る心配はあるまい。
そして阿里山の雄大な自然のさ中で、台湾娘と出会って結婚して楽しく暮らしたいな、との夢が大きく膨らんでいた。
だが「運命」という強い力が、甘い想いを完璧に打ち砕いた。

1999年9月21日未明、台湾で未曾有の大地震が発生したのである。
川浪はその日、福岡空港から台湾に戻る予定を急遽変更して、中国大連市に飛んでいた。その街の中心、中山広場にほど近いブーラン(博覧)大酒店は、川浪の定宿であった。 未明から心臓の動悸が高まって、眠ろうにも眠れない。 ホテルの裏通りには、朝4時になると朝市が立ち始める。裏通りに面した部屋だったので、騒々しさも伝わってきて完全に目が覚めた。
「やっと5時か、ニュースでも見るか」
テレビをつけて、NHK海外プレミアムにチャンネルを合わせると、いきなり大きな字幕が飛び込んできた。
「台湾で大地震!」
続いて、台北市松山空港近くの13階のマンションが陥没した大穴の中に崩れてゆく衝撃の映像が映し出された。
「何だこれは、もの凄い地震じゃないか。胸騒ぎの原因はこれだったのか・・・」
食い入るようにテレビを見続けると、次第に震源地が明らかになってきた。どうでも阿里山を縦断する車籠埔(チェロンプ)断層が滑ったらしい。
「なんということだ」と、川浪は飛び起きた。
震源はまさしく、培養施設の真下ではないか。
そこはジュジュ(集集)鎮とプーリ(埔里)鎮のほぼ中間にあたり、断層に沿って亀裂が走って地盤には高さ1mに及ぶ段差が発生しているという。

急遽、福岡空港を経由して台湾に飛んだ。
台北から来てもらった車に乗り、桃園国際空港から台中市を経由で阿里山に向かうと草屯鎮で行き止まりとなり、とても現地までは辿り着けそうもない。
少しでも震源地に近づこうと脇道を走った川浪は、変わり果てた地獄の光景を目にした。木も草も土も崩れて黒い岩肌が剥きだしになり、道路が落ちて川が埋まり、川沿いの集落はその土の下になったということだ。多くの人が生き埋めなのだろう。
これ以上、前に進むことは不可能だった。携帯電話をかけてみても、阿里山の友人たちだけでなく高雄の蔡明達の電話も繋がらない状態である。
山を下ってくる人々の情報をつなぎ合わせてみると、川浪の施設は倒れて流れを変えた河に呑まれ、跡形もなく消えたという。 どうにもならず、取りあえず台北まで帰ってホテルに入った。
蔡の電話が繋がったのは、夜10時をまわった頃だった。
「兄弟、大変なことになりました」
蔡の第一声は、震えていた。川浪はきっと、地震のせいだと思った。
少し間をおいて蔡はつづけた。
「私は今月、倒産しました。漁船の発電機のリコールがでて、M電気は何もしてくれないね。だから私の公司で弁償してます。もうお金がないし、公司も閉めることにしました。兄弟の預金も私、使いました。必ず立ち直って返済しますから許してください」
思ってもいない言葉に、川浪は言葉を失った。
蔡に預けた金の問題ではなかった。ほんの1週間もたってないのに台湾がひっくり返ったような大どんでん返しが、我が目前で起きているという衝撃的な現実にである。

「復興には最低でも3年、いや5年は掛かるだろう」
眠れぬ夜を過ごして、朝のテレビには何度も何度も、政府幹部のコメントが流れた。
6年に亘って築いた台湾キノコ菌培養プロジェクトはわずか一夜にして消え、日本向けビジネスと阿里山に膨らんでいた甘い夢の全てが微塵に崩れた。 そして、心の中で燃えさかっていた台湾の灯も一気に消えた。



台湾から中国遼寧省へ

川浪一族と中国の縁は深い。
祖父・武次は有田焼で有名な佐賀県有田市から、日露戦争の終結と同時に中国に渡り、不動産開発の事業を始めたという。
満州国が建国されると多くの日本人が満州に渡り、祖父が建てた居宅を買ったそうだ。
そして父親が誕生して5年、大正8年に祖父は落命したそうだが、誰も骸は見てないし死因すら分かっていないという。
ただ言えるのは、ただ者ではなかったということである。
父親が産まれて敗戦になるまで、武次と一緒に中国に渡ったという従兄弟の川浪勝一が、毎年のように桑折(こうり)箱いっぱいに詰められた満州紙幣を何個も馬車に積んで届けに来たという。
そのお陰で祖母・コトメと父親は広大な家に住み、使用人を5~6人も雇って何不自由ない贅沢な暮らしをした。
遼寧省大石橋(ダァシィチャオ)の満鉄駅から北に、馬車で1時間たらずの街に生家があったと祖母は話していた。

母親の父は、広島警察可部署の青年幹部だったようである。
ソ連国境に入植する日本の武装移民団を警護する任を負って、黒竜江省佳木斯(チャムス)の副市長として赴任。
終戦直後に南下を始めたソ連軍の楯となって入植者を逃がし、その後に、捕まって銃殺されたと記録が残る。
しかし、逃げたはずの祖母と母親の兄弟たち4人は、生死すら確認できていない。

その中国政府共産党に川浪が招かれたのは、台湾大地震が起きる2年前だった。
「中国食用菌協会で食用菌(キノコ)の世界探訪について講演をお願いしたい」とのオファーが党幹部から寄せられて、何かに強く引かれる思いで中国の土を踏んだ。
政府官僚、共産党幹部、食用菌学者、培養技術者らで構成する組織の協会員が約300人ほど集まって「過疎地を再生する薬膳食用菌」の話を興味深く聞いてくれた。
以来、2年続けて講演をこなしてその道では有名人となり、各地に友人が出来た。
内蒙古や河南省からも招聘が入ってきて、川浪が訪てゆくと政府、党幹部ともに喜び、昼も夜も豪華料理三段重ね(回転テーブルに料理皿を並べ、その皿と皿の上に二段目の料理、またその上に三段目の料理が重ねられる、もっとも豪華な設営)の宴会を催してくれて、五粮液(ウゥリャンイ)という最高級白酒の「乾杯」を夜が更けるまで重ねた。

その中国から、阿里山の夢を失った川浪のもとにFAXが届いたのは、帰国した翌朝である。
仕事も夢も失って呆然とした男のデスクのFAX機が、カタカタと軽い音を立て始めた。
「全人代(全国人民代表大会)の政策の一環として、過疎地の振興にキノコ栽培を取り入れたい。是非とも指導してほしい」
偶然かも知れないが、まるで帰国を何処かで見ていたかのような絶妙のタイミングなのである。
FAXの送信者は、父親が生まれ育った大石橋にほど近い地方政府の通訳代理人からである。
この政府の青年幹部たちとはとくに親しく、幾度となく盃を酌み交わした仲である。それに、父親の匂いのするような、何か心が沸き立つような想いもあった。
断る理由など有るわけもない、川浪は勇躍、中国に渡った。

広大な自然と向き合いながら取り組もうとしたのが、冬虫夏草の開発と冷暖房不要の椎茸菌の研究開発だった。
間もなく、川浪を招聘した地方政府が「冷暖房不要のシイタケ」の事業化を決めて、大きな予算を投じることとなる。
夏期のシイタケ不需要期(日本では)に、美味しい肉厚のどんこシイタケ(大分県などで冬にしか採れないシイタケ)を涼しい中国東北地方で育てて、日本各地の青果市場に供給するという計画。
これを先ず成功させると、次に中国東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省・内蒙古)のシイタケ栽培の近代化と、その核となる乾シイタケ国際市場を設立する。
いわゆる、過疎地と呼ばれる東北部の寒冷地域で春から秋にかけて栽培し、乾シイタケ(花どんこ)を作って大連周水子空港、または瀋陽桃仙国際空港からほど近い場所に巨大な乾シイタケ市場を建て、日本、台湾、香港、シンガポールなどから訪れる華僑や世界中の椎茸バイヤーに販売するという川浪の立案した壮大なプロジェクトである。
トウモロコシの生産に陰りが見えてきた寒冷過疎地の農民経済復旧はこの一手しかないと、党の幹部たちも着目した大構想が、いよいよ具体化するのである。

地方政府は哈爾浜(ハルピン)に向かう高速道路ICを下りてすぐ右の広大な用地に54棟(216万菌床)ものシイタケ栽培ハウスを建て、いよいよプロジェクトの第1幕が切って落とされた。
日本にPRすると、日本農業新聞が大々的に報じてくれて、それをきっかけに商社、食品流通業者などが続々と視察に訪れることとなった。
川浪はツアーを組んで、これに対応することになる。
「遼寧省キノコ村商談ツアー3泊4日、参加費15万円」
往復航空券・ホテル・豪華海鮮料理など全食事付・一流クラブ2夜・マイクロバス、全て含んでこの価格である。
地方政府とは、航空券など日本国内費用は川浪が払って宴会とホテル代など中国滞在費は政府が払う取り決めだった。
豪華すぎるツアーとの噂が噂を呼んで、申込みが殺到。
毎週20~30人が訪れて、マイクロバス1台では間に合わない時期もあった。
航空券を団体購入で5万円余、残った10万円近くが川浪の実質収入となるのである。
その上に、プロジェクトへの出資をする企業もあり、わずか1年足らずで8000万円余の軍資金が集まった。
これを資本に、現地に政府幹部と合弁合作公司を設立。
椎茸分級加工場に最新鋭の自動椎茸包装機2セットを日本から導入して商品化ヤードを設備。
そして2000年9月、これらの輸出を一手に担う貿易会社・大連渓流国際貿易有限公司を大連市西崗区新開路に設立、川浪は董事長総経理(代表取締役社長)に就任して、日本さらには世界に向けた本格的な歩みを開始したのである。

計画がスタートして18ヶ月、2001年4月12日、計画と寸部も狂わずに収穫が始まり、春祭と間違うほどの多くの農民たちが参加して選別、トレー盛りつけ作業が始まった。
最新鋭の日本製自働パック機が高速でうなり、次々と生シイタケをパック包装してゆく。
これなら、日本の厳しい品質管理にも充分に対応できる。
大成功だ、もう何も危惧することはない。

大連貿易港を見下ろす高台に集合した川浪と政府幹部たちは、記念すべき第1船、どんこシイタケ6万パックを積載したコンテナ船が門司港に向けて出航するのを見送った。
低く太い汽笛を鳴らし、茜色の夕陽をあびながら渤海(ブゥハイ)の水平線に消えてゆく船を、暗くなるのも忘れて眺めた。
これから日本のシイタケの収穫が始まる10月まで、毎日3コンテナもの「花どんこ」をパック包装して出荷する。
夏季に肉厚のどんこシイタケなんて、食べたことも見たこともない日本市場。
しかも、極寒地のクヌギをチップにして発生させるのだから弾力性と豊かな芳香、グアニュール酸がたっぷり詰まった極上の逸品である。
日本で人気が高まることは間違いない。
しかもこのシイタケ、絶体に他社では真似が出来ないオリジナル菌種である。
「これで夏期のシイタケ市場は握ったようなもの」と水平線に消えていった船を目で追いながら、川浪は満足の笑みを浮かべていた。
そしてその時には、頭の中に1片の冬虫夏草も存在していなかったのである。



夢を砕いたセーフガード

日本の荷受け会社から緊急連絡が入ったのは、出航から3日目の2001年4月17日だった。
「日本政府が今日、セーフガードを発効しました。関税が200%もかかるから引き取れない。コンテナをそのまま大連港に返します」
・・・何を寝ぼけたことを言ってるのか、セーフガードってなんだ。今日の今日まで聞かされてないぞ、初耳じゃないか。
川浪は電話口で怒鳴った。

夢を見ているようだった。
台湾を引き上げてすぐ、1999年10月から始めたシイタケ・プロジェクト。
以来18ヶ月の間、全知全霊を傾けてきた。
凍れた冬の日には、-20℃の極寒の中でシイタケ菌床を凍らせないために、ハウス屋根に登ってムシロ掛けの陣頭指揮をした。
小さなシイタケの芽が出ると、薄暗いハウスの中で3~4日も立ちっぱなしで、袋切りの方法を指導した。
収穫した生シイタケの選別、トレーの盛り方、レッテルのデザインも全て自分流で行った。
この子たちが日本のスーパーマーケットに並び、焼鳥屋の籠の中にもどさりと盛られ、その香しさと食感に感嘆のため息がもれることだろう。そんな想像を膨らませながら頑張ってきたのに、数百トンを出荷するつもりが、1パックも日本に上陸することもなくコンテナのまま大連港にUターンするというのだ。

事情を調べてみると、中国南方産の安いシイタケに悩まされる群馬県のシイタケ栽培業者から票を集めようとする参議院議員が、組織票をまとめるために仕組んだことだと分かった。
そんな馬鹿なこと・・・
日本の栽培書に迷惑を掛けているのは福建省・浙江省が産地のシイタケだろう。この出荷は9月から翌3月だから、日本のシイタケの収穫期と重なる。
だけどセーフガードはその時期を避けて、福建省や浙江省の出荷が終わる4月から始まっている。
それからの時期には日本もシイタケがなくなるし、他の南方シイタケの輸入もない。
ということは、恐らく、中国政府に気を遣って影響がない時期を狙ってセーフガードを発効したに違いない。
見せかけの制裁・・・
だけどその影響が、全て、日本人である川浪に来た。

川浪は早速、日本に飛んだ。
農林水産省林野庁と掛け合っても、通産省と掛け合ってもビクともしない。
思いあまって、前総理財務大臣だった宮沢事務所に飛び込み、ちょうど居合わせた大臣に直訴した。
「どうしてもやりたいというから、それならおやりになったら、と言ったよ。あとで後悔するだろうけど」
大臣はニヤニヤ笑いながら応えた。

冷たい霧雨が降る永田町を、とぼとぼと歩いた。
「もう、諦めるしかない」
またもや崩れ落ちてゆく成就の道、台湾大地震による施設の瓦解、続いて予想だにしなかったシイタケセーフガードという日中政治の障害だ。
50才にして、行く手に立ちはだかる巨大すぎる壁。
3年間で2度に及ぶ挫折と屈辱を経験するとは、何という異常事態、何という運命なのだろうか。
しかも、異国の寒空の下で身に降りかかった致命的な大敗北である。
これも試練なのか?
残される道は・・・
何もかも捨て去って日本へ逃げ帰るか、或いは、意地でも中国にへばりついて、遮二無二、キノコをやり続けるかの二者択一。
でも、逃げるわけにはいかない。
セーフガードで迷惑を掛けた地方政府と解決しなければならない問題が山積みだし、日本の出資者への対応もこれから始まるのだから。
結局、川浪は中国に残る道を選んだ、いや、厳密にいうと選ばざるを得なかったということだろう。

プロジェクトの後処理が始まった。
売り先を失ったシイタケ数百トンが谷に廃棄され、豚や野鳥のエサになったと聞く。
不幸中の幸いというか、地方政府との約定も日本の業者との契約でも、両国政府の貿易摩擦が原因となる不履行には、賠償も弁済義務も課せられていなかった。
しかし、川浪は可能な限り全ての手持ち資金と合弁資産、営業財産を弁済に充てた。
そして整理がほぼ終わった時点で、公司に残った金は10万人民元(150万円)にも満たない少額になっていた。
外国で金が無いのは、首がないのと同じだと言われる。
どうやって立て直したらよいのか、毎日毎夜、思案が続いた。
何かが欠けていたのだろう。
全身全霊を注ぎ込んだはずの川浪に、何の欠点があったのだろうか、思い起こしてみなければならない。
そういえば台湾では、鮑魚菇(パオイグゥ)という阿里山に自生するキノコを菌床にして日本に出荷し、そして軌道に乗ったと思い込んだその時点では、父親に誓ったリベンジの言葉も、冬虫夏草のことも完全に忘れていた。
中国に来てもそうだった。
シイタケプロジェクトの成功につれて、冬虫夏草の研究なんか完全に頭の中から消え失せていた。
そういった時に襲いかかった、厳しすぎる仕打ち。

そういえば・・・
川浪は、広島の記憶を辿っていた。
事業を拡大しながら政治の道を志し、地元の市議会議員の集票マシンとなってスタートを切ったのが、28才。
運動員の統率力と演説度胸を国会議員にも認められ、地元の町内会長や婦人会長、住民たちにも背中を押されて、県議会議員に立候補する腹を固めつつあった。
広島市中区の西半分、およそ15万人といわれる大票田に県会議員として立つのは、ただ1人。
「由友の会」と称する広島の芸能文化を支援する企業の会を結成し中心となって活動して、県市会議員や中区に支店を置く多くの大手企業・団体も参加してくれた。
そんな時に起きたのが、町内で勃発した居直り強盗事件。
たった一人で前科13犯を追い詰めて捕まえ、これがテレビや新聞で大きく報道されて、勇気と強さも評判となった。
しかも根っからの叩き上げだから、ローラー作戦やどぶ板選挙など票の掘り起こしも得意。
その上に、数々の裏工作も率先垂範してきた。
1万2千票をかき集めれば当選だから、目をつぶっていても勝てる、と確信があった。
市内高級住宅地に4階建てのビルを建て、3階の1室に政治活動のための事務所もキープ。
立候補の意志は誰にもしゃべってないのに、何故か、ぞくぞくと支援者が集まってきた。
あとは、2ヶ月後に迫った選挙を待つだけ。
20年間夢にまで見た無借金経営を実現し、その上に、バブルの崩壊を予測して高騰した土地を売り逃げして大きな利益も転がり込んできた。これで会社も安泰だと、全権を兄に譲って政治活動に専念しようと思っていた。
思い起こしてみると、あの時には、父親に交わしたリベンジの誓いなど完全に忘れていたようだ。

その矢先に、いわば幸せの絶頂にあるべき時に、予想だにしなかった大どんでん返しが起こった。人気・信用・実力・資産・人脈など鉄壁だと思った20年の蓄積がわずか10日間で瓦解して、立候補を断念しなければならないはめに。
女性交遊とか、汚れた関係の発覚ではない。予想だにしなかった、宗教戦争である。キリスト原理主義を信奉する妻や子らは、政治家のことを「サタン」といって忌み嫌う。
そんな家族に「立候補する」と胸の内を話した直後から、猛烈な妨害活動が始まったのだ。
信者数人を引き連れて、支援者となる長老たちの家々をしらみつぶしに歩いて廻った。そして「宗教に入ってほしい」と勧誘し、何時間も粘るのである。
度重なる勧誘に、長老たちはぶち切れた。
「選挙も宗教も、どっちもさせるんね?」と、厳しいブーイングが巻き起こったのである。
怒りに身が震え、我慢に我慢を重ねていた最後の言葉が口をついてでた。
「別々の道を歩もう」
これが、家族と別れる最後の言葉となった。
全財産を渡して、後を振り返ることなく広島を、いや日本を飛びだして、何かに導かれるように向かったのが台湾阿里山だった。
そして、冬虫夏草と出会う。
ということは・・・
「癌に打ち勝つ何かを見つけると、オヤジと約束したじゃないか。そして冬虫夏草を見つけたんだろう」
自分自身の叱咤の声に、ハッとなった。
「そうか、自分と冬虫夏草の間に強い運命の糸が絡みついているのだな。冬虫夏草を待ち望む多くの人たちの想いが太くて強力な糸となって、運命を操っているのだ」と気づいた。
「面白い、トコトンやってやろうじゃないか」
川浪は意を決した。

大連空港からほど近い、甘井子区山東路の裏通りに建つマンションの1階に研究室を設けて、来る日も来る日も、いろんな昆虫に子実体組織(胞子果)を植えつけるという発芽試験を繰り返した。
しかし、自然界とどこがどう違うのか何が悪いのか、細い子実体がチョロチョロと伸びるものの、あのプリプリした元気いっぱいの冬虫夏草が育たないのである。
これでは、自分が食べたい分も満足に出来ないのだから、目指した大規模栽培など夢のまた夢である。
「やはり、人工栽培は無理なのか」
諦めが頭を過ぎって、次第に頭脳の構造が壊れていった。
昼間から、黄河路と新開路の交差点にそびえる珠江国際大厦1階の「肥牛しゃぶしゃぶ」で青唐辛子の酢漬けをつまみながらビールを煽り、部屋に帰って少し眠ると、夜は夜で人民路海橋大酒店の日本料理店「大江戸」に行って、きんぴらゴボウを肴に焼酎を乾す生活が続いた。
夢敗れた男の孤独な闘い。
不満と不安が交錯して、不眠症が高じていた。酔った勢いで一気に寝るが、ものの2~3時間もすると目覚めてしまう。そうなると、中医から「破裂寸前」と警告されていた胆嚢結石が疼いて朝まで眠れない。
他にも、様々な病根があった。
神経鞘の損傷が原因という激しい偏頭痛、血圧の上が170で下が100を越え、驚くことに心拍数が平常時でも120に達した。
頭髪が抜け白髪が進む、乱視がすすんで文字が見えない。鼻詰まりでルル点鼻薬を1週間に1本、胃が灼けるといっては太田胃散を毎食後2匙。便秘と下痢の繰り返し、脚が抜けるほど痛む座骨神経痛は毎夜、マンション下の按摩店で癒す。季節の変わり目に必ずといってよいほど風邪を引き、激しい気管支喘息に苦しむ。
そして最も苦しんだのが、漢方医が瘡(そう)と呼ぶ難病だった。ゴルフボールほどの血膿の塊が顔面や耳たぶ、脇下などに吹き出て次第に体内へと移り、腹膜や胸膜にも転移する。
内臓に病根があるというこの病気、切っても切っても直ぐに体のどこかで血膿が膨らむというやっかいな病だ。
最近の話しになるのだが、韓国ドラマ「チャングムの誓い」で有名な朝鮮李王朝の皇帝が罹っていたという、死に直面する症状である。

最大のピンチが訪れた、あれは2月になったばかりの寒い朝のこと。朝食に立ち寄った快餐店(ファーストフード)入口の階段で、突然と身体が反り返るほどの激しい目眩に襲われた。
凍てついた石の階段に激しく頭から突っ込んだ川浪は、遠のいてゆく意識の中で「すごく頭を打った、死なないで」と慌てふためく叫び声を聞きながら、奈落の底へと落ちていった。



ついに金色の光を見た

厳しい大連の冬が来て冬虫夏草の試作はお休みとなったが、この間に、多くの人に食べてもらって食事効果を確かめたり、食べた後にトラブルがないかなどを調査しておかねばならない。
川浪自身が半年以上も食べ続けているのだから、悪い結果が出ないのが当然なのだが、やはり完璧に問題点がないという揺るぎない自信と多くの体験録が欲しかった。
薬用蟻のエキスを基に冬虫夏草を育てたなんて、これまで、世界中の誰もがやってなかったことだから、川浪にとっても、何が出てきても不思議ではないという不安があった。
そして少しでも早く、データをまとめて日本でPRして、輸入窓口や事業主体を決めなければならない。どれもこれも資金がかかることだけど、もう資金は底をついていて、日本の友人頼みで小銭を集めるのが精一杯となっていた。

そんな凍れる冬の朝、突然と、高校時代の同級生で親友のF君から電話が入った。
イベント業を営んでいるF君は「大手保険A社が代理店表彰式を北京の人民大会堂小礼堂でやりたいそうだ。JAL航空北京支店に頼んだが、半年経っても回答がない。どうだろうか?」というのだ。
人民大会堂といえば全人代(国会)が開かれる、日本でいえば国会議事堂に匹敵する施設で、北京市政府が管理する中国随一の施設である。
その3階にある小礼堂とは、共産党幹部500人が国家の方針と全人代の運営方法を話し合う重要な会議室だ。
そんな凄い場所を日本人が使うなんて、無理に決まってると思いながら、北京の朋友に連絡を入れてみた。
その4時間後、早くも北京から「北京市政府が了解してくれた。何でも市長が川浪先生のことを知ってるそうだ」という連絡が入ったのである。
F君に伝えると、信じられなかったようである。「あの大手のJALでもだめなのに、何でわずか半日でOKがもらえるのか?」と言うのである。

北京では珍しい大雪が降った、その明くる日の寒い日だった。北京大飯店で落ち合った川浪とF君は、タクシーを拾って人民大会堂へと向かった。
約束の時間、大会堂に上がる階段には職員たちが2列に並んで敬礼をして、川浪たちはその列の間を登った。
最上級の客人に対する、政府職員の儀礼なのだろう。仰ぎ見ると、入口扉の前に責任者の劉主任らしき大男が迎えに出ている。
固い握手を交わした後に川浪たちは、中国13億人を把握するという国家中枢へと足を踏み入れた。
メーン階段の踊り場には国宝級の彫刻が並び、大餐店(大会堂大宴会場)では大天井に燦然と輝く巨大な国花、牡丹のオブジェに度肝を抜かれた。
小礼堂は映画館のように階段状のフロアに、深紅のビロードを被せた椅子が配されており、高級感は抜群だった。
これら中国随一の豪華さの中で、威信をかけた最大級の表彰式をするとは、さすが世界に冠たるA保険である。
「夕食は大餐店(大会堂大宴会場)で雑伎団の演技を見ながら最上級のパーティをやりたい」という希望である。クリントン大統領が訪中の際に食べた同じメニュー、中国随一を誇る上海雑伎団の演技、看板役者を揃えた京劇、二胡(胡弓)と西洋楽器の混成演奏で間を繋ぐ。500人のゲストに酌をしたり料理を装うホステスが約100人、通訳が20人も用意すれば宜しいでしょう。
さらに、大餐店の壁添いには切り絵師や似顔絵師など中国で名人と称される模擬店が並び、大会堂正面には「熱烈歓迎、A保険会社」の巨大な横断幕を掲げよう。
これなら客人も満足するに違いないというのだ。
目が飛び出るような贅沢な要望である。
だが劉氏からは、即座に「全てOK、政府日程が空いている時期ならいつでも契約させてもらう」との回答が返ってきた。
見積額は、800万円に達した。
大会堂側と川浪の公司が契約し、公司が保険A社代理人と契約。
5月初旬には、招待500代理店という壮大な表彰パーティーが北京人民大会堂で行われるという運びとなった。

準備万端、残すところ10日を切った日に、F君から電話が入って「SARSが怖いから中止にしてほしい」というのである。
契約では、2週間以内の中止はキャンセル料として契約額100%を頂戴するようになっていた。
「もちろん保険会社の要望だから100%お支払いする。中国政府の感情を害せぬよう、上手く対処して欲しい」というA社からの要請だった。
川浪は早速、劉氏に電話して中断を要請した。
「違約金を払う、計算してほしい」
ところがである、劉氏からは、思いもかけない返事が返ってきた。
「SARSは中国が起こした問題。川浪先生には大きな迷惑を掛けた。よって違約金は不要だ」というのである。
「いやいや、違約金は保険会社から貰うので問題ない」と言っても、劉氏は頑なに拒むのである。
数日後、北京に飛んだ川浪は劉氏と面談。
払う、要らないの押し問答が続いたが、結局、北京政府が違約金の受領を正式に拒否したのである。
実際に開催していれば50万円程度の薄い利益だったろうが、SARSのお陰で一挙に800万円もの利益が転がり込んできた。
保険A社には気の毒ではあるが、川浪の公司はこれで活動資金が出来て息を吹き返したのである。

まるで朝日が昇るように、幸運が続いた。
日本の輸入総代理を希望する大証・東証1部上場の会社と、20万培養基(冬虫夏草を発生させるボトル)という大規模栽培契約が正式に決まった。
そして手塩にかけた擬黒多刺蟻ベースの冬虫夏草を日本に持って入ったのは、2003年3月30日である。
ちょうどその頃、もう一つの、運命的な出会いが芽吹いていた。

中国国際航空の大連/福岡便に乗って福岡空港にたどり着いた川浪は、通関に進む長い通路で、淡い紺のジーンズ上下を着た20歳前半の女の子が座り込んで泣いているのに出くわした。
「どうしたの?」
「青島から来た。分からない」と、ただ泣きじゃくるのである。
結局、通関まで案内してあげてから「何かあったら、ここに連絡しなさいね」と、名刺を手渡して別れた。

それからほぼ1年になるだろう。川浪が成田空港に着いたとき、突然と1本のショートメールが入って来た。
「私は日本語が出来るようになりました!」
思い出すのに時間がかかったが、福岡空港で出会った女の子以外は思い当たらなかった。
「日本語の訓練のため、メールをしても良いですか?」
それから、メールのやり取りが始まった。
「今、起きた」から1日が始まって「昼ご飯食べた?」から「お休みなさい」まで毎日事細かに連絡してきて、ほぼ1年ほど経った。
いつの間にか、女の子は川浪のことを「父ちゃん」と呼んで、川浪は「ほんちゃん」と呼ぶようになっていた。
そして、福岡から大連に飛び立つ際には一緒に夕食をする友だち、いや、父と子になっていた。
ほんちゃんの大学入試が始まった。
「父ちゃんの仕事を手伝いたいから農学部に入るよ」と言って九州大学を受験し、そして見事に合格した。
「可愛いし優しいし賢い子だ、こんな子供がいたらいいなあ」と川浪は、心から思うようになっていた。

日本に冬虫夏草を持ち込んで、そろそろ丸2年がくる。
実証試験も大成功したし、新聞などで報道されるようになってきた。
これから冬虫夏草を大々的に普及させるには、自前の販売組織を日本で立ち上げねばならない。
川浪は東京品川にオフィスを開いて、日本法人を立ち上げる決断をした。
東京に住もう、そして日本から癌を無くすために全力を尽くして働こうと考えていた。
決断すると直ぐに大連に飛んで帰り、住んでいた中山区五一路のマンションを解約して大連駅前のジュウゾウ(九州)大飯店に居を移した。
ところがである。その数日後、静まっていた運命の歯車が、また大きく動き始めた。2005年3月20日、九州大飯店2階のレストランで朝食をとっていたときだった。福岡から観光に来たと思われるグループから「何だと!」という、悲鳴のようなざわめきが起きた。
「福岡市が大地震だ!」
弾かれるように、川浪は携帯電話を持った。
その相手は勿論、ほんちゃん・・・
しかし、何度かけても電話がつながらない。
2400人が落命し、川浪のビジネスと夢を一瞬にして砕いた、あの台湾大地震の生々しい記憶が鮮明に蘇った。
あの夜と同じように胸騒ぎが始まった、ほんちゃんの身に何かあったのだろうか。
そして、神を恨んだ。
「冬虫夏草をこんなに必死にやってるのに、何で幸せを奪おうとするのか。またもや大地震を引き起こして、日本の夢までぶち壊そうなんて。俺に恨みでもあるのか」と。
心配と不安と神への猛烈な不信が交錯した眠れない夜が明けて、ほんちゃんと連絡がとれたのは朝の10時だった。
「父ちゃん、アパートが壊れた。ドアが閉まらないし鍵がかからないよ。水道が出ないから風呂もトイレも出来ない。苦しいよ、怖いよ」と、異国の地の災難に意気消沈して泣きじゃくった。
「分かった、直ぐに福岡に飛ぶから」
タクシーに飛び乗って、11時40分発の福岡行きに乗り込んだ。
福岡に着くなり、怪我のないほんちゃんを確認した。
そして、寝ぐら確保の為にホテルを2室予約した。
「ほんちゃん、立地の好いマンションを見つけるまでホテルで暮らそうね」
「父ちゃんと一緒だったら、何処でも構わないよ」
それから1ヶ月あまり、ごく自然に2人の想いが1つになって、何の抵抗もなく、ほんちゃんと川浪は一つ屋根の下で暮らすようになった。
その日は奇しくも4月26日、川浪と一緒に住むことを知らないほんちゃんの母親が、運勢を計算して「将来、幸せになるのは4月26日しかない」と、強く言いはったからである。奇しくもその日は、ガンで他界した父親の命日だった。

川浪は32才も歳の離れた大学生と結婚し、そして子供にも恵まれ、家族に囲まれる楽しい生活を送ることとなる。
大地震で壊された台湾の夢、そして、大地震で手にした素晴らしい新生活。
これも神のなせることなのか、何らかの極めて強い力が川浪の運命を操っているとしか思えない。
「冬虫夏草から離れれば地獄、冬虫夏草とともに進めば極楽」という運命の道筋が、より鮮明になってきた。



強い運命を感じ始めた

厳しい大連の冬が来て冬虫夏草の試作はお休みとなったが、この間に、多くの人に食べてもらって食事効果を確かめたり、食べた後にトラブルがないかなどを調査しておかねばならない。
川浪自身が半年以上も食べ続けているのだから、悪い結果が出ないのが当然なのだが、やはり完璧に問題点がないという揺るぎない自信と多くの体験録が欲しかった。
薬用蟻のエキスを基に冬虫夏草を育てたなんて、これまで世界中の誰もがやってなかったことだから、川浪にとっても、何が出てきても不思議ではないという不安があった。
そして少しでも早く、データをまとめて日本でPRして、輸入窓口や事業主体を決めなければならない。
どれもこれも資金がかかることだけど、もう資金は底をついていて、日本の友人頼みで小銭を集めるのが精一杯となっていた。

そんな凍れる冬の朝、突然と、高校時代の同級生で親友のF君から電話が入った。
イベント業を営んでいるF君は「大手保険A社が代理店表彰式を北京の人民大会堂の小礼堂でやりたいそうだ。JAL航空北京支店に頼んだが、半年経っても回答がない。どうだろうか?」というのだ。
人民大会堂といえば全人代(国会)が開かれる、日本でいえば国会議事堂に匹敵する施設で、北京市政府が管理していた。
その3階にある小礼堂とは、共産党幹部500人が国家の方針と全人代の運営方法を話し合う重要な会議室だ。
そんな凄い場所を日本人が使うなんて、無理に決まってると思いながら、北京の朋友に連絡を入れてみた。
その4時間後、早くも北京から「北京市政府が了解してくれた。何でも市長が川浪先生のことを知ってるそうだ」という連絡が入ったのだ。
F君に伝えると、信じられなかったようである。
「あの大手のJALでもだめなのに、何でわずか半日でOKがもらえるのか?」と言うのである。

北京では珍しい大雪が降って、翌る日の寒い日だった。
北京大飯店で落ち合った川浪とF君は、タクシーを拾って人民大会堂へと向かった。
約束の時間、大会堂に上がる階段には職員たちが2列に並んで敬礼をして、川浪たちはその列の間を登った。
最上級の客人に対する、政府職員の儀礼なのだろう。
仰ぎ見ると、入口扉の前に責任者の劉主任らしき大男が迎えに出ている。
固い握手を交わした後に川浪たちは、中国13億人を把握するという国家中枢へと、足を踏み入れた。
メーン階段の踊り場には中国国宝級の彫刻が施され、大餐店(大会堂大宴会場)では大天井に燦然と輝く巨大な国花、牡丹のオブジェに度肝を抜いた。
小礼堂は映画館のように階段状のフロアに、深紅のビロードを被せた椅子が配されており、高級感は抜群である。
これら中国随一の豪華さの中で、威信をかけた最大級の表彰式をするとは、さすが世界に冠たる保険会社である
「夕食は大餐店(大会堂大宴会場)で雑伎団の演技を見ながら最上級のパーティをやりたい」という希望である。
「クリントン大統領が訪中の際に食べた同じメニュー、中国随一を誇る上海雑伎団の演技、看板役者を揃えた京劇、二胡(胡弓)と西洋楽器の混成演奏で間を繋ぐ。500人のゲストに酌をしたり料理を装うホステスが約100人、通訳が20人も用意すれば宜しいでしょう
さらに、大餐店の壁添いには切り絵師や似顔絵師など中国で名人と称される模擬店が並び、大会堂正面には「熱烈歓迎、A保険会社」の巨大な横断幕を掲げよう。
これなら客人も満足するに違いないというのだ。
目が飛び出るような贅沢な要望である。
だが、劉氏は即座に「全てOK、政府日程が空いている時期ならいつでも契約させてもらう」との回答が返ってきた。
見積額は、800万円に達した。
大会堂側と川浪の公司が契約し、公司が保険A社代理人と契約。
5月初旬には、招待500代理店という壮大な表彰パーティーが北京人民大会堂で行われるという運びとなった。

準備万端、残すところ10日を切った日に、F君から電話が入って「SARSが怖いから中止にしてほしい」というのである。
契約では、10日以内の中止はキャンセル料として契約額100%を頂戴するようになっていた。
「もちろん保険会社の都合だから100%お支払いする。中国政府の感情を害せぬよう、上手く対処して欲しい」というA社からの要請だった。
川浪は早速、劉氏に電話して中断を要請した。
「違約金を払う、計算してほしい」
ところがである、劉氏からは、思いもかけない返事が返ってきた。
「SARSは中国が起こした問題。川浪先生には大きな迷惑を掛けた。よって違約金は不要だ」というのである。
「いやいや、違約金は貰うから問題ない」と言っても、劉氏は頑なに拒むのである。
数日間、北京に飛んだ川浪は劉氏と面談。
払う要らないの押し問答が続いたが、結局、北京政府が違約金の受領を正式に拒否したのである。
実際に開催していれば50万円程度の薄い利益だったろうが、SARSのお陰で一挙に800万円の利益が出た。
保険A社には気の毒ではあるが、公司はこれで活動資金が出来て息を吹き返したのである。

まるで朝日が昇るように、幸運が続いた。
日本の輸入総代理を希望する大証・東証1部上場の会社と、20万培養基(冬虫夏草を発生させるボトル)という大規模栽培契約が正式に決まった。
そして手塩にかけた擬黒多刺蟻ベースの冬虫夏草を日本に持って入ったのは、2003年3月30日である。
ちょうどその頃、もう一つの、運命的な出会いが芽吹いていた。

中国国際航空の大連/福岡便に乗って福岡空港にたどり着いた川浪は、通関に進む長い通路で、淡い紺のジーンズ上下を着た20歳前半の女の子が座り込んで泣いているのに出会した。
「どうしたの?」
「青島から来た。分からない」と、ただ泣きじゃくるのである。
結局、通関まで案内してあげれから「何かあったらここに連絡しなさいね」と、名刺を手渡してから別れた。
それからほぼ1年後になるだろう。
川浪が成田空港に着いたとき、突然と1本のショートメールが入って来た。
「私は日本語が出来るようになりました!」
思い出すのに時間が要ったが、福岡空港で出会った女の子以外には思い当たらなかった。
「日本語の訓練のため、メールをしても良いですか?」
それから、メールのやり取りが始まった。
「今、起きた」から1日が始まって「昼ご飯食べた?」から「お休みなさい」まで毎日事細かに連絡してきて、ほぼ1年ほど経った。
いつの間にか、女の子は川浪のことを「父ちゃん」と呼んで、川浪は「ほんちゃん」と呼ぶようになっていた。
そして、福岡から大連に飛び立つ際には一緒に夕食をする友だち、いや父と子になっていた。
ほんちゃんの大学入試が始まった。
「父ちゃんの仕事を手伝いたいから農学部に入るよ」と言って九州大学を受験し、そして合格した。
「可愛いし優しいし賢い子だ、こんな子供がいたらいいなあ」と川浪は、心から思うようになっていた。

日本に冬虫夏草を持ち込んで、そろそろ丸2年がくる。
実証試験も大成功したし、新聞などで報道されるようになってきた。
これから冬虫夏草を大々的に普及させるには、自前の販売組織を日本で立ち上げねばならない。
川浪は東京品川にオフィスを開いて、日本法人を立ち上げる決断をした。
東京に住もう。
そして、日本から癌を無くすために全力を尽くして働こうと考えていた。
決断すると直ぐに大連に飛んで、住んでいた中山区五一路のマンションを解約し、大連駅前の九州大飯店に居を移した。
ところがである。
当分静まっていた運命の歯車が、また大きく動き始めた。
05年3月20日、九州大飯店2階のレストランで朝食をとっていたときだった。
福岡から観光に来たと思われるグループから「何だと!」という、悲鳴のようなざわめきが起きた。
「福岡市が大地震だって!」
弾かれるように、川浪は携帯電話を持った。
その相手は勿論、ほんちゃん・・・
しかし、何度かけても電話がつながらない。
2400人が落命し、川浪のビジネスと夢を一瞬にして砕いた、あの台湾大地震の生々しい記憶が鮮明に蘇った。
あの夜と同じように胸騒ぎが始まった、ほんちゃんの身に何かあったのだろうか。
そして、神を恨んだ。
「冬虫夏草をこんなに必死にやってるのに、何で幸せを奪おうとする。また大地震を引き起こして日本の夢までぶち壊そうなんて、俺に恨みでもあるのか」と。
心配と不安と神への猛烈な不信が交錯した眠れない夜が明けて、ほんちゃんと連絡がとれたのは朝10時だった。
「父ちゃん、アパートが壊れた。ドアが閉まらないし鍵がかからない。水道が出ないから風呂もトイレも出来ない。苦しいよ、怖いよ」と、異国の地の災難に意気消沈して泣きじゃくった。
「分かった、直ぐに福岡に飛ぶから」
タクシーに飛び乗って11時40分発の福岡行きに乗り込んだ。
福岡に着くなり、怪我のないほんちゃんを確認した。
そして、寝ぐら確保の為にホテルを2室予約した。
「ほんちゃん、立地の好いマンションを見つけるまでホテルで暮らそうね」
「父ちゃんと一緒だったら、何処でも構わないよ」
それから1ヶ月あまり、ごく自然に2人の想いが1つになって、何の抵抗もなく、ほんちゃんと川浪は一つ屋根の下で暮らすようになった。
その日は奇しくも4月26日、父親の命日だった。
川浪と一緒に住むことを知らないほんちゃんの母親が、運勢を計算して「将来、幸せになるのは4月26日しかない」と、強く言いはったからである。
川浪は32才も歳の離れた大学生と結婚し、そして子供にも恵まれ、家族に囲まれる楽しい生活を送ることとなる。
大地震で壊された台湾の夢、そして、大地震で手にすることができた素晴らしい新生活。
これも神のなせることなのか、何らかの極めて強い力が川浪の運命を操っているとしか思えない。
「冬虫夏草から離れれば地獄、冬虫夏草とともに進めば極楽」という運命の道筋が、より鮮明になった。



20年にしてリベンジが始まった

日本で栽培が始まって今年で足掛け14年、この間、冬虫夏草150万菌床を日本に導入して栽培を成功させるという、豊富な経験と実績を誇る。
あれほど壊れていた身体も、冬虫夏草の子実体を毎日のようにつまんで食べたせいなのか、どこも悪くなかった。
JR品川駅の近くに開いていた東京事務所を福岡市に移して、屈指の名勝・大濠公園の直ぐ近くに事務所を構え、冬虫夏草の普及と栽培指導のために株式会社BGサイエンスを設立、万全の栽培支援体制を構築することができた。
冬虫夏草の培養栽培については特許権を取得するに到って、栽培者の権利を先々保護する態勢も備わった。

蟻の冬虫夏草に加えて、新種改良にも着手した。
きっかけは、保険診療をしない医療機関からの問い合わせである。
「蟻の冬虫夏草より、もっと強力な抗癌活性を持つ冬虫夏草ができないだろうか?」
もとより、川浪の目的は「癌に打ち勝つ何か」を見つけることにあったので、一も二もなく、この誘いに応じることとなる。
薬用蟻を使う前に、何度もトライして失敗していたカイコの蛹(サナギ)から発生させる冬虫夏草。
カイコには驚くべきパワーがあった。
卵からサナギを作る2ヶ月の間に、何と、重量が2000倍になるという。しかも、4回も繰り返す脱皮の前には食べないのだから、食べられるときに猛烈に食べていることになる。人間など哺乳動物と比較すると、まことに怖ろしき消化能力と代謝のパワーが備わる。
その根源は、想像を絶する凄いパワーを持つ酵素だろう。
そのうえに、イモムシからサナギになってわずか数日で、まるで姿形が変わってしまう。サナギの中の強烈な酵素によってイモムシ細胞がアポトーシス(システムに沿った細胞崩壊)し、続いてタンパク生成酵素が超速正確に溶けたイモムシ細胞を蝶の細胞に作り替えるのだろう。
この天賦の秘術ともいうべき機序を冬虫夏草に取り込めば、食べることによって癌細胞はアポトーシスして、正常細胞が一気に回復するはずだ。そうなれば、かつて誰もが想像したこともないような、癌に対する自然療法が実現する。
もっと改良しよう、薬用蟻と同じように、より強いカイコを探し求め、同じようにカイコの成分を生薬などと調合して冬虫夏草の培地を創る。この仮説をもとにして、野蚕(ある地方の天然カイコ)を栄養源にした培養基が完成した。
結果は上々だった。
依頼のあった医療機関も驚き、1億円分注文したいと申し出てくれて、700kgの新種冬虫夏草を提供した。さらに、肝臓ガン細胞増殖阻害試験では驚異的な測定値をはじき出し、また、実際にこれを食べた肝臓癌の女性の癌細胞が3ヶ月後に消えた。
これだけパワーが上がれば大丈夫だ。今や、癌にリベンジする用意がととのった。

川浪には、絶体にやらなければならない義務がある。その1つが、何故に冬虫夏草が凄いのかという科学的解明である。これを知るには、癌を研究して人体のメカニズムを知ることが第一である。
大連の凍てつく階段で昏倒して以来、冬虫夏草の培養に苦心していた折り、痛む身体をさすりながら、何度もチャレンジした漢方医学。黄帝内経を紐どこうとして簡体文と睨めっこをしたものの、巨壁が立ちはだかる思いがして断念。
そして冬虫夏草の普及が日本で始まった2004年、2005年と、立てつづけに代金不払いや横領という事件に遭遇する。億を超す未回収金が発生して、自社貿易を断念する羽目になる。
新婚早々のことである。
「50の手習い」ともいうが、50才を過ぎてパソコンを独学して冬虫夏草ホームページを立ち上げ公開した。そして、有り余る時間を活かすためにチャレンジしたのが癌発症のメカニズムである。
漢方医の家系である大学生のほんちゃんとも、日々20時間近く、身体の仕組みについて研究し話し合った。そして、いわば二人三脚で独自の医学が完成した。
その理論は「食事と腸内細菌を基本に考えれば、身体の全てが見えてくる」というシンプルなものである。
癌は食事が悪化(食品添加物・好き嫌い)して腸内細菌が衰退することから発症する、という考えが基本である。
そして義務の第2が、家族への愛を貫くこと。
「子供が22才になるまでは絶体に元気でいる。子供たちが立派に育ってくれるまでは、もちろん現役で、高みを目指して向上し続けねばならない」と。
川浪は「100才現役」という、大きな目標を立てた。
これを実現するには、己が開いた療法の道を進んで、多くの人々にこれを教え伝える必要がある。

「癌に打ち勝つ何かを見つける」という父親との誓いから20年を経た今日、ようやくリベンジが始まった。
冬虫夏草が有する強力なパワーなのか、それとも、癌に楽しみを奪われた父親の執念が強い糸となって川浪の運命を操り、そして多くの癌患者を救おうとしているのか。
まさしく、世界から癌を追放する運動が始まった。
つづいて川浪は、過疎地の振興と健康保持にも目を向けた。
その総集編となる「金色に輝く過疎地を築く」プロジェクトがスタートしたのが2013年。
過疎地で栽培する冬虫夏草(NKゴールド)が地域住民の健康をサポートしながら健康産業を創造するという地産地消型が、好評をはくしている。
6次化補助金事業として2013年に熊本県天草市(1300年前に楊貴妃が唐の戦乱を逃れて天草に流れ着き、島民の流行り病を冬虫夏草で癒したという天草楊貴妃伝説が有る)から始まったプロジェクト、翌14年には宮崎市、宮崎県都城市、大分日田市などで次々と始まって、地域ぐるみの活発な展開を見せつつある。

同時にスタートしたのが食事革命
川浪が理事長となって設立した(社)日本自然療法協会が推進するビッグ・プロジェクトだ。
冬虫夏草の先端胞子果部分を、抗癌剤が使えない、手術ができない患者を対象に無料供給するというもの。
総額5000万円におよぶ大規模キャンペーンである。
必ずや、癌にリベンジする。
川浪は固い決意を以て毎日を邁進する。

             ー完ー


終わりまでお目を通していただいて有り難うございました。本項に関して御意見並びにご共感を戴けますなら、下記よりご投稿をお願い申し上げます。

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冬虫夏草の食事革命

冬虫夏草に結ばれた強い糸
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